挨拶する
先日の京都コンサートで、わたしは少し遅れて行ったが、双子の姉妹は先に会場に行っていて席に座っていたので安心した。ところが、後で聞くと、会場にふだんから世話になっている人がいるのに、挨拶しなかった、というのであきれてしまった。そりゃ、ないだろう。社会人としての基本マナーに掛ける! と小言を言いかけるが、彼女たちは、もう見知らぬ人たちが大勢いるので、「緊張」して、隅の方にじっとしているばかりだった、と言う。それほどの心的障害を抱えているのかと、改めて考え込んでしまった。
職場でも、山歩きしていても、全く挨拶しない人はいるものだ。気が小さいのか、あまり他者と係わりたくないのか、単なる偏屈なのか、いやな生き方をするなあと思う。高校生の方が、教えていない生徒でも、「こんにちは!」と挨拶してくるので、あまりにも落差が大きい。
先日、新聞に、作家の津村記久子が「挨拶の正体」というコラムを書いていた。その受け売りだが、そもそも「挨拶」は、禅問答に由来する言葉で、連語で「挨」も「拶」も、「おす/せまる」の意味があるとか。なら、とてもじゃないが、心的障害を抱えるものには、難しい行動ということになろうか。しかし「おす/せまる」ことこそ、生きる第一歩だと思う。
また、別の新聞で、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一節「常に人を恐れ人に諂う者」は腰抜けである、と言っていると知った。「内に居て独立を得ざる者は、外にありても独立すること能わざる」とも。――自立するには、やはり人との関係を創っていかねば、とうてい無理だろうから、「挨拶する」ことは、スタートだと思う。(この漢字、ほかに使うことはないそうだ。だからひらがなでもいいのだ。)わたしは、「質問する」「応答する」「話し合う」と続くのだが……。