愛の結界
京都東山、白川を渡って、ロームシアターの「イダキシン・コンサート」へ向かう。 小さな川ではあるが、水量が多く、わりと澄んでいて、なにかの「結界」のようにも感じる。 「愛の本流」「愛の充足」が今夜のテーマだった。 「愛」は、音であり、大和言葉による訓がない。 (「かなし」「いとし」を当てる場合もあるが、ほとんど音のままで使われてきた。 そして、「性愛」とか「恋愛」とかの意味合いに重点が置かれ、エロチックな感じが漂っていた。 だからか、宣教師たちは、「アモーレ」を「神のご大切」と訳したとか。 )だからか、いつも意味合いがぼやけているように思ってきた。
20代のとき、「エンカウンター・グループ」を受講。 「あなたは、かわいがられてきましたけれど、愛されてはいなかったのですね。」と言われてから、ずっと「わたしは、愛に無縁。」 ということを、「正当化」し、すましていた。 それが、今夜のコンサートで、ぐらぐらし出した。 うまく言えないが、「愛の呪縛」から解放されて、新鮮な「愛」に、やっと巡り合えたような。 とにかく体と心が軽くなり、気持ちが楽になったのだ。 (あまりの猛暑と冷房の出入りで、夏風邪に。 鼻汁が出て仕方ないが……。 )
また、頭も、つぎのような二値思考からも解放された。 「卑屈」なることでもなく、「傲慢」になることでもない。 「否定・批判」でもなく、「肯定・賛同」でもでもない。 怒り狂うことでもなく、冷静さを装って、へらへら笑ってるのでもない。 「不信」を持ち続けるのでもなく、「信頼」に固まるのでもない。 ――これまでの規制の枠組みから離れて、言葉の定義からも自由になり新しい境地で生きることがいいのだと見えてきたのだ。
明日の応用講座で、今夜の「意義」を確かめたいが、やはり白川は結界だったように思う。 (2023.7.17.)