愛の体験
「愛」は、縄文時代からの日本語ではなく、漢字の移入によって、新しい概念語として定着したのだ、「かなしむ」「いつくしむ」「あはれむ」……大和言葉の多くを美しく抽象化した素晴らしい言葉だけど、「性愛」「愛欲」「愛憎」などに流れやすい難しい言葉だなあ。
メッセージを聴きながら、そんなことを思っているうちに、そんな御託はいいから、いま、ここで、いい気持ちでいられることを感謝する気持ちが大きくなってきた。そして、心身の「痛み」が消え、あるいは、別の部分の「歪み」を感じ、消沈していた心が「回復」し……なんてことも、もうどうでもいいような気分になった。さらに、自己の救済や、音楽の効用や、研鑽の必要も越えて、ひたすら「おおいなるもの」の中に抱かれている充実感と安心感と幸福感とに酔いしれていた。「ああ、これが愛を経験することか!」と初めて分かったような気がした。激しさより、重厚さ、温かさ、豊かさの体験だった。この先何があっても、道を失うようなことはなかろう。取り乱さず、年の瀬を越えて、新しく生きていけるだろう、と思っていた。
それでも、いつもは必ず一回はトイレに起きてしまうのだが、昨夜は、6時間半、目が覚めることはなく、今朝は、一回も赤信号にひっからずに駅まで来れたことは、具体的な変容として記すべきことか。ありがとうございます。