愛に至るプロセス
昨日のコンサートで蘇った記憶ですが、いだきしん先生にお会いした当初から「愛は一方向ではなく、多方向である」ことをお聞きしていました。コンサート、講座等で経験が深まるにつれ、このお言葉の深さがわかってきて安易に頷けなくなっていきました。また、存在論が始まった頃によくコップを持たれて、コップがここにあるというように「存在」とは「ある」ということなんだよと話されていましたので、「愛」も「ある」ということなんだと考えがよぎりますが、それは自分の言葉上の「ある」であって、真に「ある」という状態はさっぱりわかっていませんでした。
ところが昨年来、特に4月からの集中合宿のようなコンサート、講座で愛について様々な方面から、角度から、視点から表現していただき「愛」の「存在」への距離感がだんだん縮まってきたような感じがしていました。そして一昨日、東北は初めてでしたが「語る会」としては随分久しぶりの参加で、じっくり先生と語り合う経験によって自分の内面が大きく変化してきているのが、一夜明けた昨日の朝になってわかりました。「語る会」は具体的に「愛について」語り合ったというものではなかったのですが、先生と高麗さんから「愛」を感じとったからだと理解します。
昨日は盛岡が妙に懐かしく居心地が良かったので昼過ぎまで散策し、夕方に仙台へ移動、コンサートに参加しました。「多次元同時存在」、「多次元に通じる愛」のメッセージをお聞きして臨めるコンサートの有難さをつくづくと感じました。何かを感じていてもついつい勝手な頭の働きによって勘違いして受け止めていくコンサート経験が、先生の正確なお言葉とそれを読み上げてくださる高麗さんの声、さらに高麗さんの書き込みによって分かり方がどこまでも深まるチャンスが毎日のように続く今です。「鉄は熱いうちに打て」の格言の如く、良い経験をしたまま世間の常識に戻ることなく「今」「今」「今」の連続で理解していける今は最高のチャンスです。
30年前に「一方向でなく多方向」とお聞きした愛、こちらが皆目わからない時期であったために「方向」という言葉で教えていただいたとおもいますが、実際は多方向多次元であった普遍的な愛を理解する時を迎えていると感じます。また、人が誰か一人を愛するとは一見「個別の愛」に見えるようであって「しっかりとした愛」は普遍的な愛になる、とのことは具体的には先生と奥様晴美さんのご関係で理解できます。暴風の中、激しい波がしぶきをあげて次々と海岸に押し寄せる津軽の荒海を先生が撮影されていたすぐ側で撮影助手をさせていただいていた時、ずーっと離れたところで見守られていた晴美さんのお姿がハッキリと浮かびました。高麗さんにくっついて何度かお邪魔した、ご実家での穏やかでやさしい温もりのひとときも鮮烈に蘇ります。いつもありがとうございます。