意識の限界
多賀城での高句麗伝説の前夜、過去の成功パターンでは人は動かないと目の当たりに見ました。ノウハウは滑稽に見えました。目の前にいる人を無視した過去の繰り返しのビジネスの限界です。多賀城での高句麗伝説で見えたのは「紡ぐ」でした。無数の「紡ぐ」が無限に広がる世界は、何一つ意識の縛りがありません。怖いくらい何もありません。
翌朝、一瞬の強い吐き気に襲われ熱中症かと思いましたが、お腹も酷く壊れました。やっている尻から記憶が抜けていき、記憶してできる人を見ている自分が嫌になります。寝ても寝ても眠い頭です。意識の限界のまま母の家に帰っても、以前のように笑い声を上げることもなく、気づくと苛々して声を荒げていました。そんなことを思い出しながら、いつものように何を一緒に食べようかと食材を選んでいたら楽しくて、ついあれこれ買い込んで笑ってしまいます。母も色々と話してくれて先週とはまるで違います。人を動かそうとする意識が縛っていたと気づきます。気づけることがありがたいです。今朝、いつものように朝食を一緒に食べていると、母が居眠りをしています。大声で呼んでも肩を叩いても、なかなか目が覚めず何度か繰り返している内に、このまま逝ってしまうのではないかと不安に襲われました。急いで緊急訪問看護に連絡、熱を測ると37℃。血圧計測と尿が出ているか確認の指示で部屋に戻ると、母はいつものようにパクパク食べていました。驚く私に「食べ始めたら早いんだ」と涼しい顔。完食した後、わらび餅も食べるかと聞けば頷きます。こちらもペロリと食べちゃいました。さっきは何だったのでしょうか。施設の計らいで私がいる内にお迎えに来てくれ、今ほっとしています。ボーッとなんかしていられません。いつ何時何があってもおかしくないのだと、気持ち引き締める朝です。