応用講座を経て
緑色の音が体の中の骨に響き、内面一杯に広がり、「ああ、いまわたしはいい場所にいるんだ!」と感じ、親しく救済されている幸せを実感していた。三日前の夜、あまりに何回もトイレに起き、「これは腎臓が病んでいるのだ。」と思い、それで何とかせねばと思って、CD「弥生の魂」を掛けっぱなしで一昨日は寝に着いたのだった。すると、なんと一回も起きることなく朝を迎えられたのだ。わたしはびっくりして、そして慌てた。CDに効能があったということは、当然なことなのに、そのことだけをいまさら狂喜している自分の愚かさに気が乱れてしまったのだ。そうして昨日の応用講座に臨んだものだから、美しいピアノの音に癒され、励まされ、素直な気持ちになれたのだった。
ところが後のお話で、またすっかり混乱してしまった。「今後20年から30年で世の中が決まる!」「今までのことではすべてダメ。変わることが必須!」と聞き、どうしたらいいのかとおろおろしてしまい、さらに、「どうしたらいいかは言えない。」のだから、いやでも自分の頭と体で歩いていくしかないのだと悲壮感みたいなものも味わった。「愚かさから脱け出さなければならない」と高麗先生は書いておられる。でも、どうしてするのかと、つぶやいてしまう。
「年齢」も「才能」も「学歴」も「性別」も関係ないのだから、ぐずぐず言ってないで、やるしかないではないかと答えはわかっている。体調が悪くても、お金がなくても、だれにもわかってもらえずとも、自分のやりたいことを臆面なくやっていけばいいのだ、と一応自分では決めている。「日本一の国語教師としてやっていく。」ホモサピエンスは言葉を使うことで現代文明を築いてきたとハラリさんも言っている。会話を上質にし、対話を進め、明るい世の中を創っていきたい。「優しい言葉」を掛けあったり、命の美しさを表現していったりしたい。こう書いて少し落ち着く。
昨夜は久しぶりに先生の洋服姿を見た。新幹線で往復され、わざわざ教えに来てくれたように思って感謝感激。でも、そうなんでも自分に引き付けて解釈するのもよくない。わたし個人のことより人類の危機なのだから。今日は学校で、台風が接近していることが大きな話題に。生徒にも「これから地球はどうなってしまうんでしょうね。」と心配げに言う者もいる。「そう、もう今までとは全く違う世の中になっていくんだよ。」と早速受け売りをする。だが、脅かしても仕方ないと反省もした。まずは事実に向かい合って、行動していくしかないのだろう。