微妙な差異(わたしの気持ち)
その古い教え子のAさんは、俳句や短歌を愛し、新聞や雑誌に投稿し、もう入賞常連の域らしく、掲載紙などを時々送付してくれる。 神戸の震災で父を亡くし、母親の介護に専念した生活を書き留め、歌い、時には意見なども世評欄に寄せている。 在学当時から、一風変わったところのある人だったが、どうやら独身を通しているようで、まじめな市民の一人、という感じであるが、それ以上の交流はなく、交際が深まることはないのだった。 そのかれが、今日また入選の俳句や短歌をたくさん送って来てくれたが、めずらしく手紙があり、「実は、不肖私、安倍晋三元首相が大好きであり、自民党員になり、支部の副幹事長を務めています。」とあり、この度の暗殺は、「肉親が亡くなった時以上に応えました。」 と言う。 ――それで、わたしは、かれとの「隔たり」が明瞭になった気がした。 ちょっと寂しかった。
自分なりの見解を大切にし、自立して暮らしていくこと、詩歌を愛し、創作し、自分なりの意見を公表していくこと、政治に関心を持ち、行動を起こしていくこと、それはその通りなのだが、「小市民」的なことは、わたしは嫌なのだ。 短歌や俳句は、わたしも愛好するところだが、日々の感慨や愛の表現を「定型詩」にしたくはない。 (口語短歌は、あまり好きではない。 )業平や芭蕉、啄木や白秋は、いいのだが……。 新聞の世評投稿欄の文章が苦手だ。 新聞社側の推敲があるのだろうか、と思うほど、同じ口ぶりで、「善良な市民」の「声」を聞くようで、鬱陶しい。 民主主義を擁護して、発言している風情も憎らしい。 でも、それについて批判したり、糾弾したりする気にはならない。 (そんな余裕がない。 )もっと「とげ」や「毒」のある意見や叫びに接したいものだ。 だから、Aさんの存在が気になっていた。 わたしと交流したいのか、ないか求めているのかわからなかったから。 かつての生徒の一人として、できれば親交したい気はあるのだが。 誤解しないでほしいが、わたしは安倍元首相が嫌いだから、これでお互いの立場が明確になったから、すっきりしたというのではない。 Aさんが自民党員であっても、一向にかまわない。 思想信条を越えて、仲良くして生きたと、ほんとうに思っている。 好き嫌いは自由だ。 ただ、わたしは「保守」的なことが嫌なのだ。 いつも変わっていきたい、そして、「アナーキー」でありたい。 だれかの指導に頼って、おとなしくまじめに生きて行くのは嫌だ。 暴力と偽善は避けたいと思う。
Aさんからの手紙によって、Aさんの立ち位置が少しはっきりした。 手紙には、障害のある女子高校生の登下校の介助のボランティアをしているともあった。 善良な市民である。 でも、わたしにはなじめない。 そのことが分かった。 わたしも近況を返信しようと思う。