“復活”
“復活“
今年の復活祭は3月31日(日)だっとか、すると、もう三十四日も経ってから、わたしは「復活祭」を迎えていることになる。なに、ドストエフスキーの『罪と罰』を再読して、そのエピローグに感動しているからである。「どうして生きる必要がある?何を考えて?何を目指して?存在するために生きるというのか?」――シベリアに送られてなおアイデンティティに苦しむラスコーニコフ。強い信念と選ばれた思想、それを行動に移した途端、越えるべき倫理感一つ越えられず、宗教的暗愚にも逃げ込めず、後悔すらできないで苦しむ自己喪失のかれが、生命の芽吹きを感じ取り、ソフィアとの「新しい生活」に希望を見出す感動の物語!うんざりするほどの長い会話、まるで見当違いな登場人物たちの饒舌、「空なる」ペテルブルグの救いのない街と人々の描写、そして、もう周知の殺人事件、さらに、それを巡る複雑な対決や議論、その長い長い描写の後に、この「エピローグ」があるのだ。しかし、わたしは、うかつにも、愚かにも、これを読んだのは初めてのような気がするのだ。高校生のころの読書はともかく、青年時代に読み返したときも、あの劇的な自首のところで記憶が止まっている。きっと筋にしか興味がなく、主題を考える知性がなかったのだろう。やはり名作は、何回も読むべきである。
この小説は、1867年の発表とか。すると150年以上前のものなのに、なんと新しいテーマであることか。この「エピローグ」に触れられるパンデミックの物語は、まさに「コロナ禍」の現代世界に通じるし、そのなかで、「自分が一番正しい」と思い込む強烈な自信による犯罪は、今なお跡を絶たない。そして、世界の没落と絶望の中にもがき苦しむことも、今とちっとも変わらない。それでも、めぐる季節に、大地の新緑に、人々の歌声に、ソフィアとの愛に生命を復活させていくのだ。挫折と失望と消沈を繰り返しながらも、なんとか明るく、美しい命の方に向かおうとするわたしには、まるで応援歌のようにも思えたのだ。何があっても、取り返しがつかないことをしても、いつからでもやり直せる気がするのだ。(5/4)
*”罪と罰”は、作者が借金と賭博と病気と、絶望的な革命前夜の都市で書かれたことに改めて驚き、その「創造的爆発」に力を得
ました。/また、敵役とばかり思っていたポルフィーリーの「優しさ」を読み取れたことも大きな意義があった。