山路を登りながら――宗教論
「極楽浄土」なんて、いまの「バーチャル・リアリティー」と同じではないか。どちらも「非現実」なのに、人々を幻想に導き、自分たちの都合の良いようにさせるだけ。戦争末期、いちばん金を出し、大政翼賛会を支えたのは、浄土宗と朝日新聞だったのですよ。宗教なんて、もう廃れるばかりでしょう。
山道を歩きながら、同じ浄土宗系の学校に勤める同僚が苦々しそうに言う。旧統一教会問題に、わたしが触れたからだが、かれは、「宗教」より「経済」、いかに商才を働かせて、幸せな生涯が送れるかの方に気が向く人だ。親切で、明朗で、ものの道理の分かる人だから、ときどき一緒に山歩きに行く。
かれはまた、自分の親も「無宗教葬」にし、どこかの施設の墓地に遺骨を納め、年一回の親戚の食事会を法要代わりにしているとか。不動産の運用を、「自分の最も気に入った仕事」と公言してやまないかれは、町中の寺院が目障りなのかもしれない。『徒然草』の「あだし野の露消ゆるときなく」(30段)を暗唱しながら、人の心のはかなさを言うのが大得意である。そして、「おろかなる」者を冷笑して、「疑う」心の要を説く。兼好の見識は、現代に通じる指針なのだろう。
ただ、わたしは、どこか納得しかねている。かれのことを信頼はするが、どこか共感(エムパシー)には及ばない。気軽に何でも話せ、誤解はされそうもないのだが、「魂の秘密」まで打ち明けられそうもない。(これは、かれに限ったことではなく、わたしの“孤独”のゆえかもしれないが……。)大きな屋敷に住み、孫二人をかわいがり、山小屋まで持って、アウトドア生活を楽しむ余裕があるかれを、「偉いなあ!」とは思うものの、どこかに不満の心をもってしまう。単なるわたしの「妬み・嫉み」に帰せられない何か……。
たとえば、精神とか霊魂とかについて、それを否定するのではないが、敬して遠ざけている。愛情とか友愛とかについて、常識の範囲で十分だと思っている。例外的な愛とか、いびつな心情については、できるだけ感知しない。政治とか社会については、功利主義的観点でしか考えない。交換レートや利子を考慮しない生活は、愚かにしか見えない。「ベーシック・インカム」なんて、真の救済にはならない。意欲と行動を実践しない生き方は論外なのだ。かれの言い分に納得しながら、安易に同調しない。かれもそんな風ではなかったから。
宗教なんて、金持ちの独善、貧乏人の偽善、と言い切るかれに、「いや、宗教は大切。心の安寧と、見えない大きなものへの敬愛のためにも。」と思いつつ、別様に「宗教」をとらえ直さねばとも思う。また、「信じる」ということについても、身勝手な願望のために盲目的に縋りつく、というのでなくて、他者の存在を認め、共生していくという風に、考え直そうと思う。
六甲の紅葉はほんとうに美しかった。日差しのなかで、ひときわ赤く輝く樹木は、わたしの心を広げてくれる力だった。(2022.11.13.)