KEIKO KOMA Webサロン

対象を必要としない愛


昨日の生駒山縦走もそうだったが、一昨日のコンサートは、もう気持ちがよくて、まさに安心立命、「ここにいる」ことを身体も頭も心も満喫していて、言葉を必要としなかった。ただ、メッセージの中の、「本性の愛は対象を必要としません。」には、啓示を受けたような気がした。ちょうど、九鬼周造を読み、「いき」について考えていたかもしれない。いや、ずっと前から、先生の言われる「究極の愛」について、いまひとつ分からないでいた。やはり、「愛」と言えば、男女の愛、友愛、自然愛など、「~~を」愛することに頭が占有されてしまっていたからだが、また、わたし自身のコンプレックスもあって、「性愛」が「不安」の一つであったからかもしれない。それが、ハッと分かったのである。「愛」を他動詞としてしかとらえていなかった。「ある」や「なる」と同じく、自動詞だったのだ。いや動詞というより抽象名詞だったのだ。「沸き出づる愛」だったのだ。

この啓示がわたしを解放してくれた。わたし自身の奥の奥にひっそりと美しく潜んでいるものを確信できた。よし、これで明日からまた生きていけるぞという感じ!有難うございました。(3/20)

鐘のなる丘”

いま、ここにいることの幸せ!よろこび!

春3月、陽光の降り注ぐ、生駒の聖なる尾根を歩いて

高校生たちとじゃれ合いながら、“鐘のなる丘“に辿り着く

もうすぐ80歳になるのだが、「先生59歳でしょう」と言われ

もうすぐ4月からの多忙を控え、未知の世界への突入のようにも思え

人と出会い、本音で話し合い、促進の会話を続けたい意欲も醸造される

 

いま、ここにいれば、自律への自信が湧き出て来る!

自分にしかできない本来的な生き方を忘れるのを「頽落」とハイディガー

ただ、ここで鐘をつき、遠く海を見晴るかし、連なる山を眺めれば

自分にしかできない本来的な生き方が、言葉でなく光で伝わってくる

いや、自分だけのことでなく、人の不安も世の中の暗愚も解決できそう

いままでの行路はすべて忘れて、新しい生命と深い愛を生きようと思う

 

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お茶室より
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盛岡コンサート