宗教的実存
先生、高麗さん改めて本当にありがとうございます。
先生の前で発言させていただけることは何にも代えがたい本当に尊い有難い機会です。
運命があるということが最大の問題とお聞きすると運命が改善できない多くの人はどうなっていくのか、人類全体の未来を考えた時に多くの人の解決されない運命はどうなっていくのかとご質問させていただきましたが、頂いたお答えは異次元のお言葉で、結局自分の中にあった漠然とした心配は自分自身の問題であったと気づかせていただきました。
運命が解決された生命が運命がないことを証明するのは運命がない自分の存在をどんどん表して証明していくことをお答えいただきました。周りを見れば運命があって生きている人が大半ですので、自分はその運命があって苦しんでいる人を見てそれに合わせて、人を助けているつもりになっている全く先生がご指摘くださった通りの生き方をしていたことを認めました。全く愚かでやってはいけないこと、間違っていることをわかりました。介護することを例にお話しいただき、ただ単に困っているから助けてあげるという在り方は間違いだとわかりました。介護の中でやらない、手助けしないことも介護であり、運命がない生命がそこにいるだけで明るくなっていくように私自身在ることと、その人自身が自分で自分を生かして行けるようになることが正しくて、人に寄り添っているようで相手に自分を同化させ自分を生かさないことは本末転倒、自分の身を犠牲にしては人は助からない不毛さを自覚しました。
もう一つ自分でも驚いたことは、自分は運命がない生命と発言しているものの、本当は心の底からそうであるとは信じられていないことにも気づきました。講座2日目で親から子へと受け継いできた流れが断ち切られたにもかかわらず、その運命が解決され、ゼロから生き始めたことをどこか信じきれてない朧げな感覚がありました。講座2日目に光と出会った時からその光は変わらず在り続ける確かなことは先生と交わればはっきりわかります。表現が稚拙で人に伝わる表現になっていないと思いますが、大きな玉を自分の中に投げ込まれたかのような衝撃とともに、この玉を歪めることなく玉のままに生かしていくのだよと言われるがごとくに感じ、運命がないという大きな違いに目が覚める想いでした。自分の愚かさに涙が溢れました。
キルケゴールの3つの実存についてご紹介いただき、美的実存、倫理的実存、そして最終段階にある宗教的実存についてお聞きし、自分はまだまだ到達しえない次元を感じました。人の役に立つために、人を助けるためにとは考えますが、その相手となる人に一喜一憂し、私はしょっちゅう中途半端にブレているのだろうと思います。高麗さんのビデオ講演会をお聞きすれば、まるで違う次元に生きていることを感じて行きました。高麗さんは人に対して働いておられますがしかし対峙しているのは人ではなく神であり、目指しておられるのは人間になることであり、わけのわからない通じない人など一切相手にはしておられないことに気付きました。人にわけのわからないことを言われても、問うは自分が何を間違えているのか、であり、間違いか否かの答えは神というのか、昨日のコンサートで経験させていただいたコスモスというのか、もっとずっと奥深い世界にある真理を見ておられることを感じました。人の価値基準に振り回される自分は自分の中に中心がない中途半端な人間なのだと感じました。高麗さんのビデオ講演会が終わった後には自分の質問が愚問であったと感じました。人の運命がどうか、人の状態がどうか、ではなく自分自身が運命のない生命として、この整った環境の中で人間になるのかどうかだけであるとわかりました。そういう運命のない生命に人が集まり動きが生まれネット社会と相まって一挙に世界に伝播していくのだと感じました。ビジネスはこういう状態で成功していくと何度も言っていただきました。
自分自身をわかることのできる機会が心から尊く感じています。本当にありがとうございます。