“学びレス”
「分数が分からない高校一年生」の世話を頼まれた。いや、わたしは国語の教師ですが、と言いつつも、来るもの拒まず、とにかく面談し、半強制的に5回ほどレッスンをしたのだった。かれは、特段反抗的でもないし、引き籠り志向でもなかったので一安心したが、折角付け焼刃の期末考査対策も効果なく、国語も14点、数学も11点だったとか。それでも中間考査の「数学1点」という結果に、担任からは、「進級が危ぶまれる」と言われ、親はため息をつくばかり。なんとかしなければならない。
3回目だったか、「今日は数学をやってしまいます。」とかれが言うので、黙ってやらせていて驚いた。なにか課題ワークのようなものをやっているのだが、「解答」をひたすら書き写しているのだ。(なぜ、解答を先に渡してしまうのだろうか。)国語についても、「基礎力診断テスト」の序章の問題、国語の学習について、「宿題や課題を出されても、やらなかったり答えを写したりする」という項目に、正直に丸を付けていた。――要するに、「偽の学び」でお茶を濁しているだけなのだ。自分で考え、自分でやってみるという基本行為が全く欠けているのだ。学校でも、「解答」のみを正確に示され、それを記憶するのが学習だという風潮がある。学んで、考えを創り、自分を変容していく、という「学び」が欠落しているのである。
「何とかしなければ」ではなく、「ただ受け止めるべし」と、イダキシン先生は言われる。しかし、雑談ばかりしているわけにもいかないし、かれはあまり発言しない。もうひとり、31歳になる人も、「身体がしんどい。」「くつろぎたい」としか言わないで、おしゃべりなわたしの意欲を低減させるばかり。(それでも必ず時間通りに来る。)一人芝居だが、とにかくやって来ることを良しとして、なんと「一次関数」から一緒にやりだし、漢字の音訓から説明し出している。一緒にやっていこう、先を創ろうと。(2024.7.16.)