存在と存在が出会うということ
コンサートメッセージのある究極、講座も究極と感じた盛岡での経験でした。ビデオ講演会の前に淹れて下さった先生のコーヒーは格別で、大きな何かが動いたと感じる盛岡滞在でした。
本質、自分とは何か、ハイデガーが本質という名詞に動きをもたせた表現をされていること、本質そのままがあらわれた存在、余計なものをなくし、存在をあらわせたら本来性の自分の人生になること、先生が探求されてそのように生きられる状態に私達を導いて下さっていることを活かしていきたいと感じました。天命コンサートの趣意書の一文、見られた意識、対象ではなくなった時に存在となり時を超えること、本当に究極と感じてなりません。
神学と哲学、どちらも学んだことはありませんが、神学が信じるということから、哲学が問うことから探求するとしたら、どちらから向かってもひとつの真理に辿り着くのではないかと感じています。これからは人と人だけではなく、学問もまた統合することなくして先がないと感じます。
どちらが正しいかと主張することの中からは争いしかみえません。人と人でも国と国でも、今回のコロナのことも戦争も様々なシナリオが見えてなりません。短くて600年分の過去から引っ張ってきた思考のもととなる意識が我を主張させ、解決の見えない迷宮に追い込んでいるように見えます。過去が解消されるという意味、真に出会うことの意味が深まります。
今回のコンサートでは真を貫いて不遇の措置を受けたであろう方々が浮かんでなりませんでした。闇に葬られた真実に光が当たり、行く先を示されているように感じてなりませんでした。銀河鉄道は永遠の愛へと…。究極の講座をありがとうございました。