存在、動く、生きる。
高句麗伝説の前日あたりから内面が激変しています。やること、やろうとすることが猛スピードで動いてきています。
京都の存在論にて わたしの質問に答えていただく中で、いだきしん先生から「可能態」と教えていただいた状態が「可能」になるようなクリエィティブな生命活動が内面で盛んに噴出しています。しつこくやり続けてきたことがその「物事」に関する「人」も含めて、未来への可能性へと変換されていくようです。「動く」ことによってその可能性をハッキリさせていくしかないので必然的に動く日々です。
三鷹公会堂の二日間の高句麗伝説はすぐには表現できない状態でしたが、今、表現すると、、、先生と高麗さんが創造される「いだき空間」でイエス様と東明王様、また歴代の高句麗王の存在、そしてわたし達もが一つとなり「真の愛による国創り」がはじまっていると感じ、同時に考えました。
以来、自分の内面で今まで以上に急激に様々な人々の存在が交流し、新たなアイデアが閃き、生まれ、動くしかやることがない状態で「内発的に生きる」とはこういうことなんだと気づきます。
いつも明確な生きる指針とプロセスを伝えていだだきありがとうございます。