声を殺して生きていないか
「言葉の力」というとき、「声」の部分の大きさについて考えざるを得ない。先日新聞で、寝入っている子ども起こすのは、目覚ましの10倍は、「親の声」「名前」の方が効果的であるという実験報告があることを知った。また、「一声、二節、三顔」と清少納言も説教師について述べている。さらに、わたしの親戚筋にあたる老婆は、勝手浪曲師の声にほれ込んで、家出をしたと話していたのを覚えている。そして、『ことばがひらかれるとき』の著者、竹内敏晴先生のレッスンを受けたこともあるので、なんとか国語教育に「声」を持ち込みたいのだ。
その実践の一つとして、茨木のり子の詩「六月」を音読するレッスンをやっている。聴き手にいかに分かりやすく正確に伝えるかの「朗読」ではなく、自分の理解を深め、自分と出会うための「音読」という定義を元に、「詩の音読を通してする自己表現のつもりでまじめに取り組んでほしい。」とくぎをさして。
国語教育の現場で、立って「本を読む・朗読する」シーンが少なくなっていると思うが、この頃は、電話でなくメールで用件を伝えるから、ますます声が聴けなくなっている。だれもが最初は緊張して、うまく読もうとしすぎ、つまらない声しか出さないでいる。そこで、「どこか意味が分からない言葉があるの?」「内容がわからないのですか。」「平板で、あなたが読んでいるという実感がまるで伝わりませんよ。」などと、フィードバックを繰り返す。(「鍬」が読めない、分らない人がいるのに驚いた。){まるで声がいきいきとしてないよ}と注意したら、「私たちは、声を殺して生きてきたのです!」と双子の姉妹が反発したのがショックだった。(だから存在感が薄いのだと、変に納得したが……)ただ何回かやっているうちに確実に良くなってきて、その人らしさと、その人の気迫までが伝わるようになる。さらには、「音読」こそ人間の「核」を養う方法ではないかと確信した。
今日も「表現の会」に参加し、歌い、朗読してきたが、「声」を伴った表現こそ、人と人をつなぐ重要素だと思った。表情の暗い人の声は、まるで聴きとれないし、いやな人の表現でも受容できるのだった。