型と道標
ひとつひとつ丁寧に紐解いていく時期ですがついつい容量オーバーなのに全体性が気になってあちこち飛びたがる癖があり、それが大事なことを見失う元になっていることに気づきます。今、表現すべきことは「型」です。
葵上を演じる能楽師が六条御息所の怨霊を受けて舞うとしたら、演者は霊魂を受け入れる清浄な体をもち、無の境地にあります。憑かれるだけでなく霊魂の語りをそのまま聴き入れ受容する。さらに憑いた怨霊を浄化、救済するということまでも行うらしい。勿論、世阿弥や観阿弥、両者に及ぶ能力のある演者に限ることだろうと思われる。恐らく世阿弥は実際にそのような人間だったが故に「風姿花伝」を残したのだろう。
ここまでを認めるとすぐに疑問が湧いた。もしそうなら六条御息所は最初に観阿弥か世阿弥に救済され美しい魂になって二度と人に憑くことなどないはずだ。しかし、能の公演は世阿弥だけなく次の公演もあり人気の「葵上」は現代もまだ上演され続けている。六条御息所は霊として役者になったのだろか?そこで「花」という言葉が浮かぶ。怨霊となった六条御息所は観阿弥か世阿弥によって浄化、癒され昇華するが六条御息所のような心の状態は観客の内面にもある。共感、共振するからこそ能を愉しむ。しかし時代は移り変わり、観客は変わっていく、演者もしかり、世界状況もそうであるからこそ若いからとか流行っているからという「時分の花」でなく、「真の花」こそ永遠に美しいことに気づく。霊や魂、演者、観客の内面の深層にある本質的な人間性が型によって表現され交流する。六条御息所の怨霊も型によって伝承される。もしかしたら観客が見るものはとてもグロテスクなものかもしれない・・。ガザで起こっていることの本質も誰の中にもあることで誰もが気づかないだけのこと・・・。
「型」についてはずいぶん長い間考え続けてきたことですが芸能や芸術の世界で捉えるとわかりやすい。映画やテレビ世界の制作という自分に身近なことで考えると型は最初にカメラの撮り方、編集のコツ、物語の「起承転結」、山場の作り方などなど・・山ほどインプットされます。元々これらの型に嵌ることが嫌で悉くぶち壊してきましたが、創造への入り口が「型を正確に真似る」ことにあるという意味では世阿弥に戻ります。演者もディレクターやカメラマンも真似ることから自己独自の表現に成長すると花を咲かせる存在になるのでしょう。自己の存在を表すということでしょうか。
死者は悲しみや憎しみを抱えたまま亡くなると怨霊や妖怪となり、生きる人間にとり憑きますが生きている人間は内面がきれいになればなるほど種々様々な存在を受容する存在となる。世界を変えるという意味が漸くわかるようになってきたのでもっともっと自己に投資できるようになり速く真っ当な人間になることが自然と生きる目的になります。しかも徹すればすでに我々には「いだきアントレプレナー」という道標があるのです。永遠の生命を生きる存在です。
昨夜の重苦しい空気をつくっていた一人として未来を開く尊い時間に心より感謝致します。いつも貴重な経験と自分で考える数多のヒントをありがとうございます