和みと安らぎを得た!
昨日は、何か久しぶりの講座のような気がした。7月10日以来だから45日ぶり、記録的な猛暑があり、地震があり、大雨があり、政治変化があり、戦争は終わらず、暮しにくさは増すばかり、(わたしは学校が夏休みになり、“仕事ロス”を託つ毎日)――やっと秋小口に辿り着いた感じ。京都に向かう車窓の景色もまるで知らない土地の感じも与えていた。しかし、講座は帰郷したような思いの中で終始した。
ちょうどミッシェル・フーコーの本を読んでいたので、バイアスのかからない主体ってありえないことと思って、話を聞いているうちに、容易に言葉で説明できないけれど確かにあるものの姿が浮き彫りになってきて、もうすっかり安心してしまった。命の原点・輝く魂・沸き立つ愛—―まさにそこに帰って来たような喜びで、質問なんか二の次、憩いのときを堪能していた。
10年ほど前、赤坂のアンフィニであった講座に行ったときも、「そう、ここがわたしの生まれ故郷」だと確信したことがあった。が、それは東京だからだと思っていたが、「いだき」こそが原点だったのだ。応用講座のピアノにうっとりしていたら、先生が「疲れているんですね」と声をかけてくださり、間違った教科書に洗脳されることなく、身体の毒を抜いて、感じていることをちゃんと伝えていけば、84歳での「覚醒」に至ると話されたので、もう舞い上がるほどうれしかった。高麗恵子先生も、先生とつながることで、「ここにいる」ことの大切さをおっしゃっていた。
一つ気づいたことは、先生の話し方がいつも笑いを誘うこと。前の席の巨漢への呼び掛けから始まって、低血圧と発言欲求のことなど、おかしくて仕方なく、ついつい声をあげて笑ってしまう。一方で、「なにを言いたいのか、わからない!」と厳しい言葉もありながら、また一方で、「何か言いたいことがるのだろう」と優しく導く声掛けもある。でも、全体として、楽しく、にこやかにやっていこう!という雰囲気は魅力的だ。不安や心配一杯の顔つきや、自信のない迷い一杯の語り口をまずやめねばと思った。そうすれば何とかなるさ。前へ進めるぞ!(2024.8.26.)
たまたま、2022.6.26の講座メモが見つかる。存在論では、金に心をとられないで、魂の面倒を見るとあり、応用講座では、今までの頭と言葉では3年持たないとあった。――これからが正念場だ。頑張らねばならない。