“命”との出会い
【来週また皆様にであると思うと、昨日の山歩きのことを、語りたくなりました。読んでください。】
鬱蒼とした「森林管理道」を西に辿っていき、やっと「学数の森を経て西おたふく山」という古い標識を見つける。前に通ったときには気づかなかったし、「学習の森」は再度山の森林公園の方ではなかったかと思ったりする。そこからまっすぐ上に、熊笹を分けて登っていくと、展望の良い尾根に出て、やがて、ブナの森に入ってく。
そのブナの新緑が日に輝く風景を目にした途端、わたしの心は、完全にそれと一体化し、小さな叫びと共に「我」が消えてしまった。ただ、「命」そのものになってしまい、無意識だけれど実在を感じるというか、静かな躍動が分かるというか、体が「安心立命」の中にあるのを知るのだった。それを「焦り」とか「心配」とかを離れて、再生の力を得た、と言葉で言っても、少し違うのだ。そんな合理的な説明では言い切れない、ここに来て、出会った「よろこび」の感覚なのだ。――「学習の森」というより「気づきの森」という方が適切かもしれない。
少し行けば、六甲ならではのコバノミツバツツジの鮮やかな紫色が加わって、まるで生命の音楽を演奏しているようにも感じられて、ここまで登ってきた「幸せ」を満喫する。それは「素直な心」と言ってもいい。世の中に素直ではなく、自然に、もっと言えば、わが運命に素直でいられることを学んだのだと思う。前に知った「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉ほどに暗い感じでもなく、当為命題でもなく、努力目標でもない。もっと楽しく明るく、美しくさえあるのだ。まるで思春期のような「ワクワク感」の中にいた。
極楽茶屋跡から、小川谷ルートを下って、長い林道を経て、逢山峡に。その途中で、犬を連れた若い人に、「滝はまだですか」と聞かれ、「さあ、もっと奥かも。無理をしない方が……。」と答え下って行く。やがて、その滝は「猪の鼻滝」のこと、かれは通り過ぎてしまったのだとわかり、いい加減なことを言ったと気になっていた。ところが、もう唐戸の近くになって、駐車した車に犬を載せているかれと出会ったのだ。エッ、いつ追い越したの? と思いつつ、声を掛けるが、かれは、わたしと話したことも記憶にないようで、にこやかに良い散歩だった語るのだ。わたしは、何か時空を越えたような、めまいようにもの感覚も覚える。ただ、いい加減なことは言わない方がいい、ということを改めて学んだのかも。もしかしたら、「ワンダーランド」に行ってきたのかもしれない。(5/5)