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呼びたいように呼ぶ


「ストレスを感じないのはひたすら黙々と淡々といだきをお伝えするために働くこと」という今朝読んだ、高麗恵子先生の掻き込み(「生命の声」)に救われた。夜になると、ストレスとまで行かなくともモヤモヤした思いに苦しむことが多い。いや、崇高なことではなく、PCがうまく使えない、知識が足りない、お金がない、足が痛む……といったこと。でも、「黙々と淡々と」やるべきことをやっていればいいのだ、焦ることはないし心配していても始まらない、と思えたからだ。高麗先生有難うございます。

ところで、わたしはなぜ高麗恵子氏のことを「高麗先生」と呼ぶのだろう。「いだき」の仲間は、みんな「高麗さん」と親しみを込めて呼び、「先生」はいだきしん先生に決めているようだ。しかし、「いだき」の仲間は、わたしにも「宮崎先生」と言って下さる。その度にわたしはちょっと恐縮するが、「学校の先生だから、そう呼ばれて当然でしょう。」という風潮に少し抗いたくなる思いもある。なぜなら、学校現場では、教員同士でも「先生」と呼び合うのが当然のようになっており、対等の関係とか、仲間同士とかという意識は遠ざけられている、そのことに抵抗を感じているからだ。
ちょうどいま読んでいる、三木那由他という哲学者の『言葉の展望台』の最初に、「先生という敬称」について論じていて面白かった。コミュニケーションは、本来、対等の関係で始められるべきではあるから、「先生」と呼ばないで、と学生に言えば、学生は従うが、これはまた対等の関係に矛盾するではないかと。「まさに不均衡な関係を梃子にして強制力を伴うようになりかねない」と。

京大では、いまだに「さん」で学生も教授も呼び合うとか。(でも、京大出身の教員が、わたしに「宮崎先生は何をご専攻ですか」と聞いてきた。)また、「先生」は、中国では、「ミスター」くらいな意味しかないとか。だからあまりあげつらうのもおかしいのではないか。しかし、国会から市役所まで「先生」だらけで、慇懃無礼、上下関係へのこだわり、真の民主主義からの遠ざかり、いびつなコミュニケ-ションが気になって仕方ない。
前述の三木さんは、「そういうわけで、呼ばなくても構いません。」というとことに着地したようだが、ちょっとした言葉遣いを考察していてすばらしい。(今日はこの本を読んでしまおう!)
わたしも、学校では、生徒に同じ態度でいるし、教員に対しては、心が通じ合えそうな人には「さん」付けで、ほかの人は「先生」と呼んでいる。しかるに、「いだき」では、先生と呼ぶのは二人だけ。いだきしん先生と高麗恵子先生。先達の片桐ユズル氏には、「先生と呼ばないで!」と本人から言われているので、「ユズルさん」でいる。しかし、心の中では「先生」そのもの。つまり、当の本人から拒否されない限り、わたしは、呼びたいように呼ぶことにしている。(わざわざお伺いも立てない。)「いだき」には、「不均衡な関係」はないと思うし、慇懃無礼なふるまいに及ぶ意思はない。ここからは「敬語」の問題になるかも。敬語は「上下」と「親疎」を表わす。ともあれ、一生懸命、先を走ってくださる高麗恵子氏には、どうしても「先生」を付けて呼び掛けたいのだ。「さん」も悪くないが、とても同等とは思えないので。決して、敬して遠ざける意味ではなく!

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