受験生を前に
ほとんどの生徒は推薦入学が決まり、ざわつく、うるさい教室で、「共通テスト」を受験すべくAくんは、ほとんど寝ているか、“内職”ばかりしている。 これまで、どの考査でもトップクラスの成績をあげてきた優等生だ。 これは、どの高校にもある師走の風景だろう。 「自習」のとき、かれと話す。
小手先の技法で受験を乗り越えようとしてもだめだよ。 狭い功利的なやり方では、それがうまくいったって、あまりきみの知性を進展させないよ。 第一、入試なんてものは、「運次第」ということもあるよ。 そして、ともあれ国公立大学に合格するのが目的、というのは、あまりいただけないね。 「大学入学」が人生の目的みたいになってしまっては、その後どうするの? もう少し大きな意図や意欲を、もう少し世の中全体を考えるような社会認識が必要だろう。
実は、わたしは、かれのことを良く知らない。 最近、「受験特訓」をやってくれと言いに来るまでは。 派遣教員の任にあらず、なので、断わりながらも、「速読古典」をやらせたりしていたのだ。 で、事情も知らず、余計なことを言わないでくれ、とかれがむくれるかと思っていたら、「そう、それはぼくのダメなところなんです。」と、意外に落ち込まれてしまったので、かえって慌ててしまう。
世の中、功利主義が横行し、目先の損得が優先し、存在論や人生論は敬遠されるばかり。 「面倒だ」「難しい」と言えば免罪符。 とりあえずクリーンな原発を増設し、将来の難儀と経費を考えないのと同じだ。 「分かってはいるけれど、今はとりあえず、そうするしかない。」――きっとAくんもそう言うだろう。 言わないで、暗い顔をしていたから、余計に力のなってやりたくなったけれど……。
現在、ほとんどの高校が大学への通過儀礼みたいになって、受験体制を標榜するばかりである。 なんとか苦労せず大学へのチケットを手にできますよ! しかも無償制度もありますよ。 そういううたい文句で生徒を募集しただけに、推薦を放棄して受験に臨むのは大変だろう。 しかし、それを勝手にせよ、と放っておけない気もするのだ。 「蟷螂之斧」かもしれないが、教育者としての思いは失いたくない。 できる限りは、Aくんの面倒は見てやろうと思う、今日の朝だった。