危機感の欠落
先日、あることから大事な機会を落としてしまうことがあり、言葉の掛け違いから起こりましたが、自分の感覚の悪さを歯がゆく感じます。しかしながら、わかっていながらも本当の自分に蓋をしていると、言葉が間違っていなくても外れるように発せられるのではないかと思え、早急に何とかしなければと感じます。この土日は神戸の実家に帰っております。大事な話になると逆風にさらされる感が否めませんが、昨夜も紙に書き、ムキなる自分もおかしいので、ただ事実をそのままに話せればいいと感じているところです。さきほどビデオ講演会を拝聴させて頂きました。何故何もしてこなかったのか。私も同じですが、日本人は皆と同じであることが安心だからと至ります。「沈没船ジョーク」で風刺されているのも大きく頷きます。危機感がないので、皆と同じで大丈夫と感じていたと傲慢であったことを気づかされます。また、行き詰まりを感じるのは、「危機」感を微塵も起こさせないよう真実は覆われ、誤魔化され、また脳を侵されてしまっていることです。スマホがそう普及する前は、バスでも電車でも本を読む光景が見られましたが、今はほぼ全員がスマホに見入っています。ゲームに嵌って脳が侵食されているようで、何に向けていいのかわかりませんが、憤りを感じます。多賀城にて待っている魂があること、今の日本人に失望しても、かつて生きてきた方々に励まされます。亡くなった方々の方がはるかに多いので、こちらが多勢と感じられてきます。光源氏や数学のお話から「情緒」の育みが、人間としての感覚を養うことと感じます。講座での数学者の本を少し読みましたが、原動力、根源は、日常のふとしたこと、例えば花壇の土の様子から心が励まされたり、こんな何でもないことに心が動く感性が大事なことが、著者同様自分も嬉しく感じるところであります。講座にて先生がお話下さるご自身の経験は、本当は人には言わないとても大事なことをお話下さっていると改めて感じました。この「時間」はもう二度とはないことに心して生きたいと感じます。
ありがとうございます。
田嶋利江子