KEIKO KOMA Webサロン

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感受性を閉ざしてブルドーザーのように仕事をこなす日々は終わり、仕事をすることは感受性を良くし感性を高め人と関わることになり、こんな時がくるなんて・・・と嬉しいばかりです。こういう仕事がしたかったと喜び湧きますが、『最大限に利益を追求する』が弱く課題てんこ盛りです。しかし一人でないことも感じ、人に追従するのではなく、人から追従されるのでもなく、自律した関係を築ける自分の構築に日々励みます。

【追】

自分自身を裁いて謙虚そうな方に、なぜ居心地悪さを感じるのか、それは、自分自身を裁く人は他者のことも裁くから。裁かれたと感じるからいつも暴れたくなる。決めつけて、判子を押されて、見られて、苦しいから。どうしてこういうひどく乱暴なこと(無自覚)が起きてしまうのかと考えると、自分の世界だけで頭を働かせて生きてしまったり決めてしまったりしているからではないだろうか。裁くのは体ではなく頭だ。(頭も体の一部ではあるが。)どうして自分の世界だけで生きてしまったり決めてしまったりするのだろう。それは、独り善がりだから。なぜ独り善がりなのだろう。それは、表面的なことや人の顔色ばかりを気にして本質的なことや深い意味での自分自身を直視しないから。出来ないのではなくて単に癖でしないのだ。自分のことをやらずに、無意識に人を転ばせてケタケタ笑う悪魔と同化する恐ろしさ。それが人の良い善人の顔をしているのだから真に浮かばれない。

それにしても、高麗さんの言葉は本当に不思議だ。読んでいるとどんどん自分を取り戻して、楽になっていく。この違いって何なのだろう。私も人を裁いたり混乱させるのではなくて、高麗さんのように自分を取り戻させる言葉を使えるようになりたいと当然望む。自らの内に問いかける。嘘無く、正直に、がまず第一歩か。自分や人を裁くのは、なぜなんだろう。優しさ、愛から外れているからと出てくる。自分自身を裁いて謙虚な振り、はもう止めると決める。小判鮫のような生き方も止める。裁く人が『自分は正義です』と言って活動する限り、その人は自分が生きるために永遠に対象となる『悪』を、必要とする。自分が生きるために相手を裁くなんていう行為が本当に正義だろうか?そして悪の烙印を押された側は、何とも言えない不快感とともに、二度と関わりたくないと感じるのではないだろうか。世の中そんなに単純ではない。

高麗さんの表現に、本当はものすごくピタッとくる。私も苦しかった。本当は人の苦しさをすごく感じた。浮き足立つような、足下から掬われるような、自分自身でなくされるような不安、疎外感。自分自身の内に原因を探したつもりになっても、ピタッとはまらなかったのだ。高麗さんほどではなくてもどうしても受講生である限り『かぶり』ということはある。そして自分より被りやすい受講生さんたちもたくさんいるのである。何が言いたいかというと、あるものを無いようにして生きる癖をやめようということだ。

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