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初なる地平


仙台でのコンサートをありがとうございます。先日16日の三鷹でのコンサートの時に、自分の身体の奥の方で、焚き火の残火がパチパチいっているようなのを見聞きしたことを思い出した、この度の東北での日々でした。私の身体の中が燃え盛る戦火の中にいるが如くであり、ひたすらに水を求め飲んでいるこの東北での日々が不思議です。三鷹のコンサートで私が見聞きした残火は、その時はもうすぐ鎮火する何かなのだろうと勝手に思っていましたが、どうやら逆であったようです。本日の仙台でのコンサートでも、自分でも恐れを抱くほどに燃え盛る何かを、自らの内に認めていました。手の付けようがない程に燃えており、自分の命さえも焼き尽くすのではないかと心配がかすめながらも、どうすることもできず、燃え盛るままにして、私は放心していました。ようやく私の内なる全ては跡形もない程に燃やし尽くされたような時、私の身の内からかつてない程の力が出ていました。この力は無限なのかと思えるほどの力の湧き様です。自らの命をも燃やし尽くしてしまうんじゃないかとすら思ったその念さえ、燃やし尽くされて何も無くなっていました。普通ではないそのエネルギーの湧き出り方は、今の私は体重は過去最低に落ちているのに、今までの私の人生の中で一番パワフルな状態です。無駄なものがなくて、最も強い状態とはこういうことなのかなという面白さの中にいます。
本日の仙台でのコンサートの始まりの辺りから、これはヤマトタケルなのではないかなという存在を私は先生のピアノの演奏に見ていました。どうして私がそう思うのかはわかりませんが、明らかにそうなのではないかという状況だったのです。太古の原初の地に吹く風の中で、とても格好よく、強く、その生きる姿、戦う力を私は見ていました。それからしばらくして、今度はお会いしたことのないような、あまりにも格好よい方をみるような演奏でした。あまりにも格好よい存在の方で、その方の名前もわからないけれど、そんなことはどうでもいいくらいの、強さと、命の格好よさでした。私の瞳も心も釘付けになり、そして奪われました。どうしてピアノの演奏でこういうことが起こるのか本当に不思議です。精錬されそして静寂な正邪をわける心。戦いとは、命が前にすすみ、先を切り拓くこと。その命が存在しているだけで、勝つよりない生き方。その姿をまざまざとみるようでした。思わず仲間に入れてほしいと望む自分がいました。『命も女も捨てたような奴にはわかる話じゃないんだ』と実際はもう少し乱暴な言葉でしたが、どこからともなくその言葉が聞こえるようでした。しかし、その一喝さえ愛おしくて、どうしたって一緒に生きていきたいから、美しくなるよりない。自分が美しく、強く生き続けて行くより、一緒にはいさせてもらえない。自分が美しく、強く、そして人間になるより、一緒に生きてはゆけない人。それでも一緒にいたいから、生きてゆく。生きて、強くなる。この人と一緒に生きて行きたいから、今日も強くなる、そして、今日も美しく在るのだという気持ちになるよりない人でした。そして、その方の周りにいる人は、皆美しくなる。どうしたって美しく、そして人間になる。どのような者でも、人間となるより、共には居させてもらえない。本当にそのようなリアルな状況の中で、生きる姿勢を、その筋をまっすぐに教えていただいたようでした。
それから、中東の美しい精神、生命の柱をみたようでした。美しく、日本とはまた違うけれども、その美を顕し、戦い生きる芯が顕れてそしてさらに輝きを増しているようでした。
その時、日本とかどこの国とかでもない、地球のどこでもない地平から生まれた新しい光が世界を照らしているような光景が広がっていました。本日のコンサートで経験した様々な時代や場所をも包括できるような地平があることを知りました。先程の格好いい人は、『全ての命が報われないとだめなんだ!!』という勢いで世界に向かい斬り込んでいく様相でありましたが、この地平が拓かれた今という時代をもすでに味方にして動いているように想えます。新たな地平から生まれた光が世界に拡がり、世界を包み、世界をひとつとするような、新しい春が訪れていました。人類の源の春がここからはじまる気配が、私の燃え尽くされた内面にも吹き、そこから新たな新芽が生まれるようです。

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三鷹市公会堂光のホールにて-3
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京都コンサートホール 大ホールにて
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高麗恵子ギャラリーにて