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光の音の噴水をあびて


命がけのコンサートをありがとうございます。

高麗恵子さんの書き込みを拝読して、命がけで高句麗伝説に臨んで下さったこと、感覚の良いどころではない先生と高麗さんのような方が、人にはわからない重荷を大きく受けて世を変えていってくださっていること、目の前で出会って経験して、知ってしまっている自分は人間として、当然忘れてはいけないと改めて痛感します。せめて日々の表現をもっとしっかりしなければいけないと。人に気を遣って表現もぶれる、コンサートにも集中できない、などということがあってはいけないと、そんなのは未熟者の証と、しっかりしようと悔しさに震えが走ります。自分で認めるしかないありのままの状態に、言い訳するのは見苦しくて、それでありながらあまりにも情けない状態に、もう二度と繰り返すまいと自分の中に誓いを立てるのです。

今日のコンサートも、辿り着くまでに大変でした。本当に何が起こるかわからない、「まさか!」ということが弱点に被ってくると、ぞっとします。

演奏は、途中で少しだけ「小学生に分数をどう教えようか」という雑念がわいてしまったところがありましたが、ほかは、だんだんとひとつになって演奏を聴く訓練が出来てきていると感じました。最後のアンコールで先生の音と一つになったと感じたとき芯から気持ちよく、初めての経験でした。光の音の噴水を浴び、大きな飛行船のような存在を空に感じ、芯から洗い流され清められていくのです。

以前も書きましたが、一つになる状態、そこにそのまま存在するという状態をずっとわからなかったのです。体はそこにいても、頭の中は、「帰り道どうしよう」「仕事の段取りどうしよう」などと、その場とは関係のないことを思い巡らせることが常で、それを子供のころから誰からも叱られたことはなかったのです。だからうっかり頭の中は自由だと思ってしまっていました。自由は自由ですが、そこにそのまま存在しないということは、部分的にしかものを見れず、ひとりぼっちで、エネルギーも部分的にしか入ってきません。いつかの盛岡の講演会のときに、一番前に座らせていただいたにも関わらず私がそういう状態だったために、高麗恵子さんに大変失礼なことをしてしまったことがありました。その時に気付いたのでその後は正しましたが、相手に対して失礼なのは当然のことながら、相手に対して失礼だからという理由だけではなく、やはり人間はその場にちゃんと存在しなくてはならないのだと、その奥深さと大切さがここ数日でさらに腑に落ちました。

素晴らしい催しをありがとうございます。

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