人間、日本人
どんな人間なのか?と問われた時に自分に残るものを考える。どんな人間であるかはさておき役割や押しつけられるものをこなさなければいけなかった時はとうに過ぎて、いま、一人一人がどんな人間であるかこそ問われている。梅干しの種を割ると中には小さい実が入っているように、私の中にも小さな光の粒があって、いつもそれを覆い隠すような外的な事象を当然のように優先してきたけれど、これからはこの実の光の方の声を聞くことを優先していかないといけない。お行儀が良くないけど子供の頃種を歯でガリッと噛んで、中の実を食べるのが好きだった。歯も丈夫だったし、種を割ってやろうという根性があった。いまは光の実を感じると頭がシーンと静かになってしまう。あまりにこれまで存在を無視しすぎたせいか、私に素直に語りかけたり笑いかけたりしてくれない。「だって明日も、そうやってお金の方を優先して私の声を無視するんでしょ?」と言っている。うん。6月はたくさんの人のお陰で望む時を過ごせたけど、同時に迷惑をかけたし、がんばらないと。でももう無視はしないよ。話は全部聞くので、本当はどうしたいのか全部言ってみて。「迷惑をかけた、っていうけど、一番迷惑をかけている相手はいだきしん先生なんだから。あんたわかってんの?」光が怒っている。
どうしてもお腹が空いて家まで耐えられない。汚いものは『わび』でお掃除する術を学んだけど、次の悩みというか直したい点は、我慢ができないところだ。適切な我慢を出来ないと、行儀良くものを行えない。つまり楽しみながらものを行えない。いつでも短絡的思考でプロセスなく、起承転結ならぬ『起結』の端折った生態は、小泉政権の構造改革の前後で強化されたと感じるけど、改め育て直すのは自分だ。
世界は、思ったよりも全く性善説は通じない。そんな酷いこと私はしない、と思うけど、他はする。そういうものなんだと学ぶ。そうしないと生きてこられなかったんだろうな。そうするしか道を知らないのだ。信じられないけどこれが現実で、日本人として戦って勝って生きていくより道はなく、勝ち方は『死中に活を求める』で学んだ。攻めるよりない。
人間であること、日本人であること、光の実を取り戻し、磨き、世界に発信していく、と言葉が生まれる。もちろん外側の自分は、「大それた事を言うんじゃない、できなかったらどう責任取るんだ」とギャーギャー暴れて騒いでいる。でもそんなことくらいでもう光の実は閉ざされない。なぜならば、6月を越えたから。いだきしん先生に一番大切なことを教わったからだ。