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人の子


いだきしん先生が「ナザレのイエス」を表現されたコンサートを経て、「ナザレのイエス」との真の出会いを語っていただいた大変尊い日でした。中学生になって入院された小児病棟で偶然知った「ナザレのイエス」、後に出会った「ナザレのイエス」、先生が話された二つの言葉、「知った」と「出会った」が私には同じに聞こえたので質問させていただきましたが、先生との対話を通して一気に理解が深まり、愛のはじまりがわかりました。牧師さんや専門家から聞く多くの解釈、解説などはご自分が知った「ナザレのイエス」から益々離れていき、違和感を感じられていたのは何の前知識もなく「知った」中学時代のナザレのイエス体験があったからと理解します。このようなことが現代ではとてもわかりにくくなっていることは、「宗教と一部重なることはあっても宗教に留まることはなく、むしろ宗教によって疎外され、顕れたものが何なのかはっきりしないということがある」と、すでにコンサートメッセージにて教えていただいていました。自分としては一昨日の夜から昨日の未明の地震に至るまで、何かを知ろうとする集中力が猛然と高まり、朝まで続いていました。応用コースにてそれはまさに先生の「ナザレのイエス」のお話を深く理解するための経験だったとわかりました。

はじまりのはじまりという表現をすれば、17歳頃から触れていた小林秀雄さんや柳田国男さん、辻邦生さん、またドストエフスキー、トルストイなどロシアの文豪たちの存在が一気に甦るように思い起こされ、あの頃の経験を思い出すように読んだり調べたりしていました。しかし、先生のお話はやはり「ナザレのイエス」であり「木造町の斎藤忠光」さんでした。私の経験では「はじまりのはじまり」で触れた方々の追体験的なこととして「イエスキリスト」の存在はありました。もっと言えばその方々の話では、「西洋文化を理解するにはキリスト教を知らないとはじまらない」という意味のことを読んだり知ったりしたことが印象に残っています。誰も「ナザレのイエス」ではなかったと感じます。「自分をとり戻す、自分自身になることが一度きりの人生を生き、永遠の存在のはじまり」であることが全身でわかってきています。内臓が収まるべきところに収まってきています。いつも尊い経験の場をありがとうございます。

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NPO高麗 東北センターにて