KEIKO KOMA Webサロン

京都にて


京都にて、ビデオ講演会と応用コースに参加させていただき、ありがとうございます。

高麗さんの話される三日間の高句麗伝説で何が起こったのかをお聞きし、本当の歴史を体感できる場にいることが真の人生を生きる経験ができる元だと感じます。この経験無くしては、何も始まらないのです。事実を認めていけば、現実が動いていく、思い込みでは現実が動かないということを言っておられたかと記憶しています。私は、何かわかった時には、現実が変わって行くか、物事が成って行くかどうかが本当にわかったのかの証明です。思いついただけのことは、現実は動きません。自分の思いだと、成っていきません。死んでも終わらない生命とは?を考えます。何をもって死んだと言うのか。医師が死亡診断することが「死」であると認識しています。死んだこともわからない人の意識が、他の人の体に入って生きている。自分が生きている意識のまま、肉体はなくても死んだこともわからずに人の体を使って人を動かすことがあるのでしょうか?死んだ後、どう成っていくのか。高句麗の王様と生きておられる高麗さんがいると言うことは、王様は死んではいないと言うことです。肉体は無くなっても、魂は生きているということ。魂を感じる人がいれば、生きていると言うことになるのでしょうか?私が慧慈のことを初めてお聞きしたのは、横浜の講演会でした。海のそばの古い会館でした。涙が止まらず、ストーリーに感動しているにしては、嗚咽になるほど泣くのはなんなのか。今も理由はわかりません。先生が撮られた飛鳥寺の大仏の写真はいつも胸にあります。そして、飛鳥寺の風。太古の風です。今日、高麗さんのお話をお聞きして、さらに鮮明に記憶よりも現実になってきます。

応用コースでは、世界のことを捉えることをお聞きしました。今朝お会いした人に、いだきの活動をお話しして、自分が成長すれば世界に伝播して世界が良くなって行く新しい生き方です。と伝えると、自分は世界なんて大きなことは考えていないと言われたので、改めて世界のことを考えない状態で物事をやることについて考えていました。先生が世界について話されると、どんどん遠く広く広がっていきます。この感覚は、コンサートや高句麗伝説で時空を超えていく経験をしないと掴めないかもしれません。世界中を歩き回ってもわからないかもしれません。自分のことなのに自分ではわからないことを、他人である先生はわかる。この不思議を考えていました。なぜ、そんなことが起こるのか?「対象になっていかないんだよね」と言う言葉は衝撃的です。俗世では、全てが対象です。見られることばかりです。自分では無い、霊や運命に動かされている生き方では自分のことはわかりません。自分のことがわかると言っても、自分はこういう人だ、と言ってることはあてになりません。やはり、何かやって行く中で気がつくことが自分なのかと考えます。今回の高句麗伝説へ向けての活動で、京都でも人に会えることに少し希望が持ててきました。言ったことをやれるように、向かっていきます。今日は、存在論、死についてに参加させていただきます。よろしくお願いします。

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三鷹市公会堂 光のホールにて
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「高句麗伝説」第10弾
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東北