五月のはじまり
5月になりました。昨日は、高麗屋さんの「シリア《高句麗伝説》上映会サロン」に参加させていただき、4月最後の日を迎えました。どうして自分がここに座っているのか、とても不思議な巡りでこの一席に到達したようで、面白さがありながら上映会は始まりました。上映会が始まると高麗屋さんの空間には、窓から見える陽の光が「高句麗伝説」の先生の音とあまりにもひとつになっているようで、遠く日本と中東という距離を超えてシリアの空の太陽がそのまま届いているようでした。シリアの「高句麗伝説」は私が高校生の頃に家でも車でもエンドレスでかかっていたDVDのうちのひとつでした。しかし、上映会が始まるや否や、どうやら私のよく聞いて知っている「シリア高句麗伝説」の気配ではないことに気付きます。高麗さんの居られる場の上映会は、高麗屋さんの空間全体が、「高句麗伝説」となっていました。画面越しの映像を見るという訳ではないのだと知りました。
空間なのか、私の内面なのか、どこからともなく「紛い物がいる」という言葉が響くようで、私はびっくりして、自分を含むまわりを、一瞬見渡していました。上映会の空間は先生の演奏と高麗さんの詩によって、正邪をわけてゆく潔く清い魂が現われているようでした。そしてその潔い空間に、紛い物として切り離されて終わる人生の悲惨さと云うのは想像に難くなかったのです。
しかしその「紛い物」というのは、誰だとか、何だとか云うのは、今わかることではないのかもしれないとも想えました。それはもしかしたら本人にもわかることではないかもしれない、と。しかし、些細な事のように見える人生の一瞬一瞬の生き方が、未来の自分の明暗をもわけてゆくのは間違いのない事であると感じたし、自分はそういう未来を選びたくはないと痛感しました。人間はいつから、いずれ大きな隔たりを創ってしまう道を選ぶようになったのか。その歴史を見るようでした。生まれつきの運命のない私は、そう云う人間の生き方を繰り返すわけにはいかないし、繰り返さないのです。
広い野原にある遺跡の映像のところでは、愛しい風、光、大地と表現したいような、音と詩と映像でした。その地に生まれ、そして生きる場を追われて、今を生きている方達に届くマーブリングTシャツのことが心に灯りました。その方達に届くマーブリングTシャツのアイロンかけを、より一層させていただきたい意欲に、私の身の内は満ちていました。
「シリア高句麗伝説」のラストにゆくにつれ、シリアの大地に埋もれるものを、発掘し見出しているようでした。埋もれていたその輝きは、空間によみがえり、見出され、更に瞬間瞬間の演奏で、どこまでも拡がってエネルギッシュになってゆくようでした。先生の演奏は、その輝きが、どれほど強く変化、成長しても、さらにその先へ先へと、共に変容し飛躍してゆけるのだな、と希望を見出しました。見出された光は、私たち一人一人も同じであると想えて、私たちが輝いて輝いて変化成長し続けてゆく人生が、何より豊かであることを体感しました。
ありがとうございます。