二つ分かったこと
ウクライナ情勢を聞く度に、暗鬱な気持ちになるのはだれでもだろう。子どもまで拷問され殺害されたらしい、なんて聞くとなおさら。どうしてこういうことになってしまったか、と思い、小泉悠氏の『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)を半分ほど読んだ。びっくりしたことは、ロシアはずっと戦争し続けていたということ。シリアへの介入もそうだし、クリミア併合もそうで、冷戦終結後、なんとかロシアの威厳を守るために、戦略を練り、侵略を繰り返していること。ニューズで知っていても、本格的な戦争にはなってはいないと思っていた。平和ボケの頭ではそいうなるのだろう。しかも、「ハイブリッドな戦争」を繰り返し、気が付いたら、もう軍隊に蹂躙されているようなことが何回もあったのだ。立場を変えれば、湾岸戦争以来のアメリカも同じだ。それに気づいても憂慮する以外にはなかっただろうが、またどうしようもないが、もう少しちゃんとした視点を持てたかもしれない。たとえば、北アルプスの展望をドローンを使って、みごとに映像として伝えてくれるのを喜んでばかりいたわたしは、今度の戦争の優柔な武器としてドローンが活躍しているのに唖然とするばかりだった。サイバー攻撃とか情報戦略とかも同じで、「日常」と「戦争」が同居していることをあらためて知った。
もう一つ、はっきりしたことは、ハイデガーの『存在と時間』を両義的に読むということ。昨日も触れた戸谷洋志氏の解説によって、「先駆的な決意性」をどう継承していくかについて、アーレントは「複数性」という視点を入れ、ヨナスは「倫理」という視点を入れて、止揚していることが分かっことで、この「存在論」ににわかに親近感が持てたということだ。それにしても、「良心の呼び声」は沈黙だということがまだわかりにくい。「大いなる存在」の声と同じことなのだろうが。