不健全さを求めて
- こんばんは。多賀城のコンサート以来、「一人一人がありのままを表現して生きられる」のがよいなと思いつつ、じゃあ自分はそうしようと決めて行動していましたがどこか靄がかかっていました。本日の応用コースでそのモヤモヤの正体をお話しして下さりありがとうございます。
アノミーについてのお話は初めてではありませんでしたが、今この時に共同体のお話を伺うと、実感がありすぎてより一層身が震えました。(長男は、共同体のなかでまあそこそこよければいいやと妥協してしまいがちな話など。)
先ほどたまたま観ていたテレビでも、日本で海産物を美味しく食べた中国の女性が、このことは親には言わないと話していました。なぜかというと、親に言うと間違いなく「ええーっ!?」という顔をされるに違いないから。まさに共同体で生きているゆえでしょう。
改めて思い返すと、私が元々いだきに来た理由は、過去にうつ病を患ってしまい、うつは良くなってきたものの昨今まで何をすればよいか、何に情熱を注げばよいか分からなくなってしまっていたからです。ちょうどその時先生から疎外とアノミーの話を聞いて、「あ!だからなのか!!」とハッとして、この場所でなら解決に向かえるかもしれないと希望を持てたのを思い出します。
今家族の様子を見ていると不憫です。だって常に相手の様子を伺いながら日常を過ごしているのですから。自覚はないもののいつも気を張っていなければならないのは、じつは相当なストレスになっているだろうと思います。(ちらちら頻繁に様子を見られる側の私も気にはなります)
今回の応用コースオンデマンド、出先で充分に視聴できなかったのでまた観ます。
次回の渋谷でのコンサートのすぐ後に、福井と滋賀を訪れる予定です。とくに滋賀の木地師の里を楽しみにしています。生命を賭けてやるとはどんなことかと気になり、白州正子氏、折口信夫氏を辿るなかで、この木地師の里のことを知りました。
民芸は健康だと頭で信じてそれ以外のものに見向きもしないこと、閉じ籠ることは不潔で愚かだとし、「じかに物を見る」ことを勧めた柳宗悦氏。白州正子氏の述べる、げて物の面白さ。名もない民衆が作ったから美しいのではなく、無心に作ったからたまたま美しいものが生まれたに過ぎないという言葉。応用コースにて先生より伺った、芸術は本来疎外から脱け出す手段であったこと。感化された事由は様々あれど、真面目なだけではやっぱり物事つまらないし続かないと感じていた私は、とにかく行って見て感じてみたくなったのです。ある種のエロシチズムを自らの内に膨らませたくなったのです(金のためのあざといエロシチズムではなく)。今までの私であれば不健全と思っていた領域の。お金に換算できない一生ものの経験になったらいいな。まったく新しい未来に向けて。
中川秀之