三つの不思議
不思議な感覚
毎月、応用講座やコンサートは近づくと、困窮がひどくなり、どうしたものかと途方に暮れる日々が続く。そして、もう倒れ込むように会場に行き、講座を受け、ピアノに身をゆだねていると、身体の芯から沸き立つような気力と、うまく言語化できない希望の光を得て、再生していくのだ。不思議も何も、そういう場に来ているのに、失礼なことだと思うが……。折角、「受講」できたわが身の幸運を、もっと原点に据えるべきなのに、いつまでも大成しないで、フラフラしてしまうのだ。
この度は、多分老齢ゆえだと思うが、「派遣講師」の道が途絶えたこと。何とか身過ぎの道を考えねばと、焦ればせるほどうまくいかない。万策尽きて、しばらく様子を見ること……。毎日、妙に落ち着いたような、落ち込んだような、不思議な感覚の中にいます。
不思議な出会い
別の本を買いに行った神戸の本屋で、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ』(朝日新聞出版)を手にしたのだ。全くの偶然で見つけたのだが、思わず後先顧みず購入してしまい、帰途の車中から読み出し、昨夜半分詠み、今朝全部読んでしまった。「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉の意味は、「性急に解決策を求めず、不確かさや不思議さのままでいる能力」ということで、なにか今のわたしにぴったりのメッセージのように思えたのだった。著者は著名な精神科医で小説家で、いくつかの作品を読んだこともあるが、「ポジティヴ」志向の強いわたしには、意表を突かれもし、「オープン・ダイアローグ」とか、「エンカウンター・グループ」とかを志向するわたしにとって、まさに我が意を得たりの内容でもあった。
ただ、今朝になって後半を読むと、急に面白くなくなり、「共感」や「親切」を強調されすぎて、ワクワク感が急激に薄れてしまったのも妙なことだった。
不思議な自分
帚木蓬生さんが言うように、「日薬」「目薬」の対話や対面が重要であることはわかるが、なにか物足らなさを感じてしまう。また、キーツの言葉の「詩人はアイデンティティを持たない」というのも、分かったようで分かっていない。そう簡単に「自分」なんかわからないし、どれが「本音」かいつもわからない、という点ではそうだが、それは別に「詩人」でもそうではないか。
どうやらわたしは「年齢」ことが気になって仕方ないらしい。「いだき」で、そんなこと関係ないと何度も聞きながら。でも、とても「82歳」とは自分でも思えないほど、元気で若々しくいられる。まだこれから、学校の一つや二つ創ろうと思っているし、生涯現役で教壇に立ちたいとも思っている。生徒たちと話しているときが、一番「年齢」の外におられる。なのにそのことに自信がないというか、生物学的真実から目を背けているような気がする愚かさの中にいる。
知人は多いのに、今の気持ちを分かち合う友がいなく寂しい、ことも事実だが、先生のような人に巡り会い、何でも受け止めてくれる存在のそばにいることも事実だ。かくて、もうあれこれ悩まず、「ネガティブ・ケイパビリティ」で持ちこたえて、講座の席に着き、コンサート会場に向おうと思う。(その前に、自分を表現しておきたかったので、長々と書いてしまいました。頓首)
(4/10)