一音一音に
びわ湖ホールのコンサート、ありがとうございます。
終演10分前頃に母がお手洗いに席を立ってしまい、先生、高麗さん、スタッフの方、会場のお客様には本当に申し訳ございませんでした。コンサートで愛に満ちていたので、いつもなら「何故こんな時に!」と母に対し責める気持ちが湧いたと思いますが、そんな気持ちは全く起こらず演奏されている先生、はじめ周りの方の迷惑にならない様に、母の足元を確保しながら会場を出ました。自分が変わっていることに自分が驚きました。ありがとうございます。
琵琶湖畔沿いの道路を走りながら向かった会場ですが、道中、母が「今日は琵琶湖の水が盛り上がっている」言うのです。確かにそんな気もすると感じました。第1部のコンサートメッセージ「波間から」に琵琶湖のエネルギーを先生が表現してくださると姿勢を正し第一音を待ちます。あまりに繊細な一音に内心、あれ??と戸惑いながらも演奏をお聞きしていました。何故か音が遠くに聞こえ、自分の状態がおかしいんだと思うと余計に焦り、演奏が進むに連れて首から肩、背中に重くのしかかる固く貼りついた何かを感じます。苦しいままにじっとしていると第1部が終わりました。第2部「繊細な愛」をお聞きしていると、自分の習った「繊細」という言葉のイメージがあって、そこに当てはめ聞いていると気づきます。当てはまる音は気持ち良く、当てはまらない音は、どこか居心地が悪いのです。第1部での「龍神」というイメージで音を捉えようとして、大きくて強い音の連続を龍神といわれる自然のエネルギーとして表現してくださると思っていましたが、まるで見当違いです。うる覚えですが「波間から」のメッセージの中に、「固定化」というお言葉があったと記憶しています。水と風が織りなす形、波は変幻自在であるのに、高麗さんが書き込みで書いてくださったメッセージの一部をお読みして「命を育むようなエネルギーがこの波間から絶え間なく湧くようにあるにも関わらず」固定化した頭では到底エネルギーを受け止めることはできません。先生のコンサートでは自分の有り様が露呈します。いだきをお伝えしようというあり方も何か固定した部分であって「理念」をもう一度問い直すことが必要です。ここで表現させて戴きながら、コンサート中の背中に貼りついた重みは、固定化した観念が自分を取り囲み、分厚い殻を作って先生の音が遠くに聞こえたのかもしれません。後半は音が入ってくる様に変わっていました。その場で認識できずとも身体は反応していることに驚きます。いかに身体の繊細な反応を頭が同時に認識できずにいるかをわかります。この度のびわ湖ホールの演奏も新たなる音の表現に驚くばかりです。前日の応用コースでのお話で17日の三鷹の、東京では6月最後のコンサート「アメノミナカヌシ」のことをお聞きしながら、独神で一番最初の神様とお聞きする存在とひとつになられ、しかもピアノで表現される先生の存在にただただ驚愕と畏敬と、それでいて奉る存在ではなくいつも共にあり続けてくださり、ありがたいという言葉では表せないです。昨日のピアノの一音一音は、「こうやって言葉も丁寧に大事に紡ぎ使うのです。」と教えて頂いているようでした。応用コースで教えて頂いた様に、ちゃんとした本をしっかり読むことが大事であることを以前も教えて戴きながら、やってないから文章を書こうとすると言葉を知らないので、どうしても乱暴になってしまいます。
母も入り口で高麗さんにお声をかけて戴き、またいろいろな方が話しかけてくださり、大変元気でいつも家でひとりなので久しぶりに話せる場があって良かったです。コンサート終了後は足取りもしっかりして元気になりました。帰りに高麗さんにご挨拶したかったけど他のお客様とお話ししていたのでご挨拶できなかったと残念がっていました。明日も京都コンサートホールに母も参加させて頂きます。今日は迎賓館コンサートをライブ配信で参加させて頂きます。
ありがとうございます。