一隅を照らして
昨日、神戸市灘区のガード下の倉庫で行われている歌の集いに参加してきた。70年代からのフォーク仲間の一人が、体制や流行におもねない、自作の弾き語りにこだわって、月一回開催している小さな集いである。懐かしきフォークソングを楽しむのが目的でも、反政府運動を気取るのでもない。また、世のすね者たちの憂さ晴らしでもない。
ここで歌って何になろう? かつての「良心」の芽を絶やしたくないからか。
ここで詩を朗読して何になろう? かろうじて「存在」を証明するためなのか。
ここで集って何をしよう? 不平不満を分かち合うためでもなかろう。
そんな詩を書いて、参加し、民謡を歌い、自作の歌をやり、詩の朗読をしてきた。
昨日は、山梨県甲府市からNがやってきた。水俣行のことや、踏切番の男の悲哀を歌って、レコードも出し、いまだに(もう73歳とか)あちこちで歌っている人だ。その「アウトサイダー」ぶりと、独特の心に染む「声」の調子が、ますます磨きがかかっていて、うれしかった。そう「声」にすれば、心は洗われ、「言葉」にすれば、頭はよくなるのだ、と確信した。やはり「集い」が必要だ。一隅を照らすものになれるから。