一粒の麦もし死なずば・・
いだきしん先生が東北の応用コースで前日コンサートの銀河鉄道のメッセージの意味を教えてくださったことで「存在」と「存在者」、「存在忘却」について深く考える機会をいただき、一人一人の「存在忘却」が世界の今の状況をつくってしまっていることを理解しました。
盛岡以降も自分自身の生き方を問い、どう生きるかを考えていましたが、先生ご自身が私たちに教えてくださったことのさらに奥深い「存在そのものの実体」をハイデガーの晩年を読み解いてさらに理解を深めようとされていたことを狛江の応用コースで知り、先生の探求の姿勢、向上し続ける生き方をあらためて目の当たりに学びました。先生ご自身はずっと「わからないことを分かる」、わからないことを「そのまま分れるか」を問い続けておられたことを具体的に公開して下さり、いだきの真髄が身に沁みるように伝わってきました。
「存在」を問い、表現するプロセスで「存在」自体が対象化されてしまった哲学の限界をアリストテレスの形式論に見出し、批判していたハイデガーが晩年には「存在」という表現をしていなかったこと、「存在」を4つのことで表現したことを教えていただきました。天空、大地、神的なるもの、死すべきもの。・・・4番目の「死すべきもの」とお聞きし、ワインのお話にはじまり、珈琲を焙煎されるいだきしん先生がアフリカの生豆(なままめ)を焙煎し、焼き尽くすことで生かしていることが分かると、その瞬間背筋がゾッとするような衝撃を受けました。ずっと以前から自分の内面に意味がわからず気になったまま宿っていた一つの言葉の意味が氷解するようにわかったのです。
イエス様の言葉、「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
この言葉はドストエフスキーのカラマゾフの兄弟の冒頭にあったものです。当時はまだ聖書そのものに全く触れもせず、イエス・キリストという存在も外国の宗教の教祖の話ぐらいに思い込んでいました。ところがドストエフスキーやトルストイに没頭していた時期に西洋やロシア文学はキリスト教を知らないと理解できないと著名な批評家が書いていたのを読み、その頃から少しづつ聖書や「イエス・キリスト」を意識し始めました。
そして先生と出逢い、長い長い時間を経てやっと「ナザレのイエス」という真実の存在を理解しました。「一粒の麦・・・」は新約聖書にあるヨハネ12章24節のことばですがどうしても「死んで実を結ぶ」という意味が理解できませんでした。とはいえ、こうして書いているとさらにこの言葉の意味を問い続けることになりそうです。いだきしん先生の問いと探求、答えを出されるプロセスをずっと学ばせていただき、いだきの真髄である答えの出し方を漸く身につけつつあります。
そのままわかるためのプロセスを自分自身で行うことのヒントを次々と公開してくださり、心より感謝致します。「存在忘却」を克服し、世界のど真ん中に飛び込む要の時を迎えました。いつも尊い経験の場をありがとうございます。