KEIKO KOMA Webサロン

プロセス



「ぶちまける」とコンサートのメッセージをくださる前、私自身、違和感や不快感、悲しみ、怒り、そういったマイナスのことは人には言わないように、というよりも言えないようになっていました。が、同時に我慢の限界も感じていました。我慢の限界点をふりきって、自分では感情のまま破茶滅茶になっていること、言葉が乱暴であることを感じていても、何が正しいのか間違っているのかわからないような状態でした。「ぶちまける」とメッセージをくださったとき、まさに、、と感じ表現してくださることに涙よりありませんでした。
うちにあることを我慢していることや言わないことは間違っていることをわかりました。隠した状態で愛になるはずがないことを身にしみ感じ、表現することを考えはじめました。しかし慣れていない自分は表現方法が未熟であることを日常の中で感じていました。コンサート後、自分が不快に感じることを人を傷つけず、人に通じるように表現される方の表現に触れたとき、感動をおぼえると同時に胸の支えがとれる経験をしました。やはり言葉なのだと学びました。

さらに、昨晩のコンサートと応用コースにて、「物神化」とお聞きし、現体制の中では「モノ」が中心となり愛を実現するには程遠い環境の中に生きていることを理解しました。数日前起こったことはあまりにも残酷で、1日半泣き続けていました。それは関係の中で突如起こったことを起点としていました。初めて関係の中で生命の欲求を受け容れられ、その関係において初めて全身全霊生命優しいことを経験しました。互いの欲求が一つになり、受け容れあい、愛とより表現できない状態が突如起こったとき、過去の出来事や傷ついたことは一瞬にして清算され消えたのです。しかし翌日、まるで何も起こらなかったかのようにしてある無機質な生命に触れ、困惑し混乱しました。あまりにも生命が軽く扱われていくことに許せない気持ちが溢れ1日半泣き続けていました。はじめは何に傷つき、何に耐えがたいほど悲しいのか、言葉になりませんでしたが、泣き続け言葉を書き続けていた先に、「モノ」と「モノ」の関係であったことに気がつきました。自分は自分が「モノ」になっていること。人の生命も「モノ」とし扱っていること。人との関係は「モノ」同士の関係であることに気がついたとき、涙は止まり、目が覚めました。モノだから関係を切り捨てたり、切り捨てられたりしてしまうこと。また仕事においては効率性や生産性を高めるために、人の生命もモノのようにして使用していく状態が起こってしまうこと。人の生命、人の気持ちがまるで無視され、無視できてしまうのは、それだけ「モノ」が強く君臨しているからであることを自分の経験、また昨日のコンサート、講座の経験を通じて理解しました。自分の生命は他の何にも比べられず、なんの価値にも交換できない重く尊いことを初めてわかり、過去これまでどれほど自分自身が自分自身の生命を軽く扱ってきたのかと目が覚めるのです。生命の尊いことがわかれば過去自分自身がのやってきたことは、選択できるはずがないとわかるのです。
さらに、「大事なのは愛だよね、と言った瞬間、愛に疎外されている」とお聞きしていたことによって救われました。まさに話し合おうとすればするほど、愛について語ろうとすればするほど、愛から遠のき、胸が苦しくてたまらなくなりました。この状態を疎外というのかと、理解します。
最後の最後の土壇場で起きた出来事は、意図した訳でも理屈でもなく、突如起こったことでした。発した音、発せられた音は確かであり、本音であることは互いに瞬時に了解しました。その経験を無視できるのは人間ではないと感じます。起こったことを一瞬にし理解し、一瞬にし変容し、次の瞬間から新たな展開が始まっている生命を瞬時に了解し合えれば私は今よりももっと幸せに生きていけると感じます。正しさとは崩れないこと、続くことを何度も何十回もコンサート等で経験させていただいています。言葉と生命と行為とが一致しないために崩れたり続かないのだと感じます。言葉が間違いを多くおこし、余計なことをつくっていることを感じはじめます。先生や高麗さんのように正しい言葉を瞬時に使えるようになれば正しい方向を見つけ一貫した愛を実現し幸せをつくってゆけるのではないかと感じます。

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高麗恵子ギャラリーにて
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NPO高麗 東北センターにて
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東京カフェ高麗屋にて