スタートを切って
今夜もコーヒーを片手にコンサートの経験を書いているときが幸せです。
東京を離れて2日が経ち、そして24日の仙台でのコンサートへ向かう道中も全く問題など感じていないはずだったのに、コンサートホールの席に着いた時には命からがらたどり着いてもう一歩も動けないという状態となっていた自分の有り様に驚き、コンサートは始まりました。自らの身体は岩のように重たくて固まっており、コロナ禍にある交通機関はこれほど緊張するのだとようやく気付きました。理由はそれだけではなく、何かにいつも負けまいとして踏ん張って生きていることが、身体は岩のようになるだけなのだな、と身にしみるほどわかりました。そうやって部分部分で頑張っている状態は、身体には隙間風が吹いているようで、不思議とその隙は人はよくわかるようでした。ひたすら身体が重苦しいままに第1部のコンサートが終わってしまい、第2部のコンサートは始まりました。身体の重い鎧をも融けてゆくような音色が身体の細部にまでそして深くにまでしみわたりました。日常で身体がくるしいなあ、とは思っていてもきっとその苦しみは感じないように見ないようにしていつもつっぱしってしまうのは、苦しみなどわかったところでどうしようもないのだからそんなの無視してつっぱしれ!という意識にもないようなところで永い年月の家訓のようになっている古い生き方そのものです。しかし、私は新たな時代の人間の生き方をみました。私はあらゆることが壊れて、壊れつくしている程の毎日で、以前と同じ毎日を取り戻したいとは1mmも考えていません。あらゆることが壊れつくしたこの先に再生があるのなら、今までなどとは比べることも出来ない程の未来より希望はありません。
第2部でのピアノの音が身にしみていくように心地よく拡がった時、身体の中に押さえ込んでいる苦しみや要求のそのひとつひとつは命が生まれるようにして生まれているのではないかと想える光景がありました。それも、それらは普段は自覚することさえなく押し込めていることで、コンサートでの機会に最も見出され育まれる時を得られるようでした。
そのひとつひとつのことが、例えば本当に生まれたばかりの赤子であったら、もし可愛い我が子であったら、どれだけ一生懸命育むことだろう、そしてどのような苦難があり困難であっても超えてゆこうとするだろう、と。どのような苦しみが生まれても、どのような気持ちや本音が生まれても、それが生まれたばかり自分の子どものように大切な存在だったらどうしますか、と。そして自分のいのちを大事にするとはそれと同じことなんだよ、と言われているようでした。命があり、その命から生まれていることは命と同じに大切であり重要なことで、それも他者の命とも本当にひとつで生きる命をわかった時、自らの生命が育まれた時、他の生命も同時に活きられるトータルな世界をみます。自分の命や、命から生まれたひとつひとつの要求や苦しみは何でないがしろにしてつぶしてゆくんだろうと自らを振り返る時、それは全体的な世界に於いても悲しみを生むことでしかなく、それが今までの世の中や社会の風習のようですらあるのならと考えると悲しみと解放の歓びが同時に身体を駆けめぐります。
その瞬間、自分の身体の内側からきこえる赤子の泣き声のような声が同時に耳からも届いてきこえていました。それはずっと聞くことも見ることもせず身体に閉じ込めた、その本当に些細で細部にある繊細なところからきこえてくる声のようでした。
そしてコンサートでの生命の状態から、一見何の防備も装備もなくただ身体がほぐれてほぐれ続けてあるがままで在る状態が、真に隙も半端もなく生きている一番パワフルな状態であると会得しました。
コンサートのはじまりの状態を想うと、コンサートのおわりの状態までまさに飛躍出来、行けたことは奇跡のことで、涙が溢れそうな程、感謝と感激しています。アンコールでの先生のお姿は、これが日本の真の伝統文化であるという言葉になる舞台で活躍されている方のお姿でした。その舞台に参加し生きられる一人一人の人生です。誠にありがとうございます。