コペルニクス的転回
「言葉は事実に対応している!」
一般意味論や記号論による「コトバとその指示物は別の存在。したがって、虚偽でない言葉はない!」という考えは、わたしの「天動説」であった。しかし、昨日の「存在論」で、「それは間違っているよ。」と指摘されたのがすごいショックだった。まさにコペルニクス的転回の瞬間だった。
あまりのことに折角言ってくださった本の名前をメモできなかったが、虚構である小説なのに、歴史的真実を描いたものがあること(だれか教えてください)や、辻邦生の『背教者ユリアヌス』にみられる圧倒的な言葉の力のことを例に挙げられ、記号論的に分析できることはあっても、それが必ずしも「言葉」の真実ではないことを理解した。『背教者ユリアヌス』の中にも、ユリアヌスの裁判のとき、人々が堂々と嘘をつく場面があり、人の口にする言葉はすべてが嘘ではないかと、ユリアヌスも嘆き、読者もため息をつくのだが。「嘘でない言葉はない!」と外山滋比古さんのように言いたくもなる。しかし、ほんとうのことを、真実を伝える言葉を、その存在を疑っては、存在を問えないのだ。
ハイディガーの言う「不安」とは違う心配や懸念のなかで、いつも擦切って、もう何かに助けてもらいたくて、少しは具体的な安楽や元気や共感がほしくて、いつも「いだき講座」に駆け付ける。そして、「応用講座」では、睡眠・食べ物・行動を古いデータや常識で考えずに、自分とその関係性の中でよく分かって、内面豊かに生きていくのが肝要と言う「知恵」を得、とても元気になった。若いTくんとそれを喜び合った。さらに、「存在論」では、古い頭から解放され、言葉への信頼を回復した。国語教師であるわたしが「言葉」に信を置いていないでは話にならないではないか。もちろんやたらに「言霊思想」を振り回し、人を大いなる虚偽に酔わすことや、美辞麗句だけで他者を欺くことの非、さらには、すぐに「一般化」(いつも、みんな、)してしまうことには注意が欠かせないが。ともあれ、今朝は、言葉に対して「自由」「平等」「博愛」を手にしたようで、革命の朝のようで、気分がいい。ありがとうございました。