グシャグシャになった頭。
「存在」を問うということでは昨日の存在論の「負い目」と「良心」は考え込んでしまいました。いだきしん先生とえりかちゃんとの関係性での出来事やご両親との関係性のお話をお聞きし、次第にわかってきましたが・・・。「良心」が人間に元々あるもののように聞こえ、伺いましたら「無から生まれる」とのことで、少しモヤモヤが晴れました。が、モヤモヤは応用講座を経ても質問にならない混沌状態として残りました。
ハイデガーを調べると、一般社会で言われる「ある行為に対する叱責や警告を伴う良心」のことではなく「固有の自己」を呼び起こすだけの「良心の呼び声」と書いてあるものがありました。呼び声からは指示はない、とも。先生が「無から生まれる」とおっしゃったこととやっと繋がりました。そして先生のこと(真の現存在)、先生の人への物事の伝え方と理解しました。
「負い目」についても「世界内存在」、人が好きで選んだわけでもない世界に「投げ込まれた存在」ということから考えると、その世界で他者との間に生まれる関係性は「引け目」とは異なる関係になるのもわかります。それでも「負い目」については「先駆者」に繋がるものとしてはまだ考えることも多く消化不良です。
それにしても先生が再々哲学する人の真面目さをおっしゃいますが、一方で老人ホームの酒飲みのおじいちゃんのような人も登場して、ハイデガーと並んで座っているかのように「存在」を考える機会となり、ぐっと身近になります。応用講座も一貫して存在を考える機会となりましたが、正直言って昨日の二つの講座は頭がグシャグシャになっていました。しかしここから始まるとの気持ちは生まれます。
いつもありがとうございます。