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カンニング


期末考査が始まり、監督のため、教室に入っていくと、一人の男子高校生がわたしの顔を見て、「オッ!カンニングできるぞ。」と言う。そんなに甘く見られているのかと不愉快だったが、そもそも「カンニング」(受験中の不正行為というのは、和製英語。原義は悪知恵。)して、点を採って、なにがいいのだろう。「不正行為」はよくないのは決まっているが、虚偽の、その場しのぎで、ことをしのいでいく生き方が気持ち悪い。だから、そういう姑息な手段に走らないように厳しく監視するのも教師の務めなのだろう。しかし、頭から生徒をカンニングするものと決め込んで、見張る教師も問題ではないか。そこには「信頼」が全くなく、昨日までの共通理解は消滅してしまっている。学校では、一つでもカンニングが見つかれば、全教科0点、と厳罰で臨むことになっている。だから、余計に一時の気の違いに、生涯をだめにさせたくはないもの。別にカンニングを奨励する気は毛頭ないが……。
わたしは、カンニングしても意味がないようなテストを作ることに意を注いでいる。記憶に頼らせない、隣の席の答案を見ても、あまり意味がない、そういう問題を主にしているが。あくまで自分の実力を計測する一つの手段として、試験をとらえ、公正に行うものとして、臨んでいるが。
仕方ないから、一時間中、立ったまま、生徒から目を離さないでいる。それでいいとはちっとも思わないままで。

昨日の存在論では、「普遍」を理解することがテーマだった。感受性を深めて、永遠の命を知ること、そのために、一切の虚偽や姑息なことを避けて、ギリギリのところで、やるべきことをやっていかねばならない。そもそも教師が勉強不足との苦言もあったが、試験監督中、そのことばかり考えていた。「信頼」につながる「勉強」をせねばならぬと。

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