”イダキ語”
「ピアノが語り掛ける」というような音楽評論を聞いたことがあるが、16日の京都、東山のイダキシン・コンサートは、まさにそれを体験した。 即興で演奏されるピアノの音は、まさに優しく体内に染み込み、わたしの内面に語り掛けてくる。 ただし、言葉に翻訳はできない。 外国語と同じようにさっぱりわからないのに、伝わり、心は感謝の意で応じている。 まさにピアノの言葉は“イダキ語”であった。 そして、不思議にそれが理解できたのだ。 第一部では、すべての緊張や不安が消えていき、ひたすら生命が癒されていく。 そして、第二部は、若々しい生命力が復活し、自信回復のときであった。 もう愉快でしかない。 笑いがこみ上げてきて、この場に身を置いている幸せを満喫する。
東山の白河の流れは滔々と行き、山からの風が新しい「気」を運んできて、もうアプローチから気持ちが良かった。 もう24年前、「いだき」が「株式会社」であることに驚き、先生に「宗教」じゃないと明言され、「難行苦行」も「地獄の特訓」も強要されないことに安心し、コンサートで救済され、「高句麗伝説」で覚醒し、応用講座などで「思い込み」や「独断」から解放され、いつも危ないところで支援され、救済されている。 それなのに、何年たっても未熟で不明で拙劣なまま。 ただ、昨夜は、「若々しさ」こそがわが誇りという境地に達し、まだまだ頑張って生きていくのだという宣言をひそかに心の中でやったのだった。
今日は、「イダキ語」を使って授業した。 高校生たちとあまり「国語」の授業らしからぬことを語り合うのだが、その会話のところどころに「イダキ語」を挿入したのだ。 そうすると、生徒たちの若い「気」と、こちらの「若々しい気」が交流し、実に楽しいひと時を過ごせるのだ。
「先生は、ほんとうは何歳?」「80歳だよ。」 「何歳まで生きたいですか」「ウム。まだまだ死にたくないなあ。」 「100歳くらいまで大丈夫ですよ。」「いや、年齢より、十分仕事して、例えば、教壇で頓死したいなあ。」 「えっ!それは。 ぼくたちが迷惑しますよ。」 「いいじゃないか、その辺に蹴飛ばしておいてくれたらいいんだ。」……。 (2023.6.17.)