もうお盆
うっかり洗濯物を持って行ったが、クリーニング屋は盆休みの張り紙があり閉まっていた。こちらの「思い」とは別に時間が流れていく。
いくら本を読んでも、人の話を聞いても、「わかったつもり」でしかないのなら、ちゃんと理解し、整合性を検討し、真実に向かい合えていないのなら、何にもならないのだ。どうじても自分の「思い」(先入観や勝手なスキーマ)で読んでいる限りは、誤解や偏見から自由になれない。しかしまた、読書でも研究でも、「こちらの思い」がなければ成立しない。「文脈」が意味を決めるのだから。
ハイディガーを読んでいて、「わかったつもり」にもなれないことが、かえって新鮮だ。福沢諭吉も、「頭に汗をかく」ほど難しい書物に挑戦したらしい。「現存在」にとっての邪魔なものってなのことだろうと、思って脱線ばかりしている。しかし、どうせ「わかったつもり」に至らないのだろうから、自分の「思い」から離れられないのだから、開き直って、自分の力で、少しずつ読み進めるばかりだ。
ただ、この自分の「思い」をいつも新鮮に保つことが必要だろう。わたしにはこうして書き込みすることや、修養ノートを書くこと、まら研究論考を進めることもそうだが、15日からのコンサートと東京滞在が、その最高の機会であると思っている。