なぜか気持ちは前向き
PCに向かいすぎたか、肩が凝り、歯茎が腫れ上がり、ものも食べられない状態になったので、水曜日に医者に行った。そして葛根湯を出してもらって、服用したら、いっぺんに直ってしまった。無理をしないようにはしているが、なぜか気持ちは前向き。明日は、午前中神戸で歌の集い、午後は、大阪関目で、おとなの「国語サロン」、そして夕方には、京都の「存在論」に駆け付ける。(「応用講座」はオンデマンドを申し込んだ。)まさに三都をかけて活躍している。ありがたいことである。明日朗読する詩を。
善人たちの沈黙
歌の集いが、対話の場が、自粛ムードの中で、しばらく街から消えてしまった
良識ある善人たちは、人に移してはいけないからと、出歩かなくなってしまった
全体主義の匂いが立ち込める中で、物言うべき人たちもすっかり黙ってしまった
オンラインやSNSがまるで「正義」のような顔をして世界にはびこってしまった
デジタル社会についていけず、アナログな悲痛な叫びは聞こえなくなってしまった
キング牧師は言っていた。
最大の悲劇は、悪人たちの圧政や残酷さではなく、善人たちの沈黙である。と
わたしは、それでも結構忙しく毎日を送っていたが、二冊の小説を読んだのだった
帚木蓬生の『守教』と、中村文則の『殉教者』
どちらも隠れキリシタンの悲惨な歴史が語られていた
棄教しないで拷問され殺されて行った人たちの声が聴こえてきた
宗教では、とうてい社会は救えないのだ、とわたしは強く思った
じゃあ、どうすれば世の中を良くし、自由で明るい社会を築けるのか
例えばキリスト教弾圧を命じた為政者たちを、歴史から抹殺すべきなのか
汚職と虚偽にまみれた政治家たちをもっともっと糾弾すべきなのか
国家を容易に信じたり、民主主義なんかに夢を託すべきではないのか
国が何か独裁に向かっていそうで、またみんな愚かなようで、いいのだろうか
でも、どうして二か月も三か月も、黙って過ごしてしまったのか
どうしようもないという思考停止と、何もできないという無力さを抱えて
でも、反省して、例の“一億総ざんげ”なんて、偽善のポーズはとりたくない
多くの信者を救済しなかった神の沈黙を恨むこともしたくない
したたかに生き延び、学び続け、今日より明日へと変わっていくしかあるまい
何、もう一度やり直せばいいこと、もう一ぺん語り掛けたらいいこと
貧しくとも、年老いていようとも、孤独でも、歌が下手でも、構うことはない
梅雨の晴れ間、美しい六月の夕空が、“沈黙”を“饒舌”に変えてくれたのだ