なぜ「いだき」⁈
30年前、なぜ「いだき」を受講したのだったか。直接的には、わたしにはきっと合うだろう、と紹介してくれた人がいたからだが、高麗先生の説明会に行って、例の余命いくばくかの命が助かった!という奇蹟に驚いて、よし、それなら受講してみよう、という気になったのだったと思う。でも、いま思えば、そんな「好奇心」だけではなかったように思う。会場に行ったら、もう体が喜んで、宗教じゃないかという懸念も、新手のネットワークビジネスではないかという心配も吹き飛んで、明るさと希望と美しい想念とに駆られ、受講したくて仕方なくなったのだと思い返す。そして、沖縄での一日中のコンサートで、光のシャワーを受け、音響に導かれ、「再生」への一歩を踏み出したのだった。宝塚の応用講座で、興奮して、「最高でした!」と喜びを先生に伝えたら、「なにを言ってるの。これからじゃないか!」と言われたのを鮮明に覚えている。そして、なんども後戻りしたり、バカを繰り返したり、躓いたりして、今日にいたるわけだが、昨日のコンサートで、「よくぞ、この場にいるものだ!」「こんな幸せな人生を生きられるなんて!」という感慨に浸っていた。
ただ、まだなにも分かっていない。先生が「分かっていないから通じない。」ということが身に染みる。正直、「因子」が云々とか、「魂が動く」とか、ちっとも合理的には人に伝え得ない。「クロノス」時間で生き、その言葉では語れないし、今までの学習や教養では、なんとも表現の域を越えているからだろう。よく仲間に、「そんなこと言っても、赤の他人に、「シャクヤク」も「白いコーヒー」も通じるはずないじゃないか、「いだき」全能なんて言うから、ますます怪しまれるばかりじゃないか。」と言ってきたことを反省する。しかし、先生も、だからこそ「ピアノ」だったのだろうし、「コーヒー・ビジネス」だったのだろう。これまでの対象化した言葉や認識では、誤解と曲解ばかりを生むからだろう。それでも、日曜の講座では、「時間が二つあるのです。」と、硬い私の頭を砕いてくださった。髪の毛のないわたしは、もうチャンスはないのかと僻みはしなかったが……。「生命と一体になった言葉」(高麗先生)を使わねば!
わたしは、やはり言葉で伝えていきたい。決して先生に対抗する意味ではなく、日本語の可能性とか、「声」とか「リズム」とか「場」とかを視野に入れて、「カイロス」のことを表現してみたい。「とにかく連れてきたらいいのよ!」ということもあろうが、「拉致監禁」は最後の手段、「アサーティブ」(主張、主体的発言)な話し合いの中で勧誘していきたい。
安心立命のコンサートから一夜明けて、こんなことを考えています。ありがとうございます。