たかが言葉(Just Words)
われわれは、いつも「言語ゲーム」に参加し、勝ったり負けたりしている。相手が指示通りに動いてくれれば喜び、相手の何気ない物言いに傷つき悲しむ。だが、それが意外に「言葉の暴力」の駆使であり、各自の「本音」から離脱してしまう結果につながることか気づいていない。いくら識者や指導者が注意しても、言葉に圧倒され、言葉に疎外され、言葉で傷ついてしまう。でも言葉に頼るしか意思表示も、会話も、思考もできない。「ひと言」で愁眉を開き、体調までよくなるかと思えば、「ひと言」で絶望し、自殺まで考えてしまう。これはかなり大変なことなのだ。すごい天候の中で暮らしているようなものだ。暴風や酷暑の毎日だ。「たかが言葉」と言っていられない。
だから、「言葉」の背景とも言うべき「文脈」(「スコア」「調整」)を良く考慮し、「意味の占有」に注意しなければならない、と識者は言い、誠意をもって、話しかけねばならないと指導者は語る。しかし、そんな「立派な人」から程遠い一般人は耳も傾けない。いや、「立派な人」も実際には適応できていないのが現実社会だ。じゃあ、どうすればいいのか。
それは、「言語ゲーム」に参加し続けること、「たかが言葉」と言葉の限界にも思いをいたすことだと、わたしは思っている。一喜一憂せず、話し合いを続け、言質を取られたら、誤ってそれを返してもらい、気が付いたら改め、もう一度話せばいいのだ。そして、ノンバーバルな表情や態度、行為と行動も忘れずに。できるだけ異質な人との出会いを重ねること。それを今すぐ始めることだ。さらに、言葉だけで終わらせずに、黙って傍に居続けること、毛嫌いせずに受け止めること。(これはみんなわたし自身に言って聞かせています。)2022.8.2.