『小川未明童話集』(岩波文庫)を読んで
なお、カチカチいっている時計の音は、しばらくの間、無邪気な子供らの笑い声に 聞こえました。(『小さい針の音』昭和2年)
「時計なんか、いらない。お天道さまさえあれば、たくさんだ。」/みんなは昔の ように一致して、いつとなく、村は平和に治まったということであります。(『時 計のない村』大正10年)
ちょっと事情があって、童話集を読むことになった。小川未明が、日本最初の創作童話集「赤い船」(明治43年)を出し、鈴木三重吉の「赤い鳥」に至る児童文学の先駆的存在であることは知っていたが、その作品に触れることなく今に至ってしまった。良い機会だと思って、通読し、その美しくも優しい筆致に魅かれ、その「社会の矛盾と悪徳には、良心しか勝つものはない」という未明の確信に共感すること大であった。特に、「寂しいところに、一軒の家がありました。」ではじまる、『二度と通らない旅人』の描写とキリスト教の聖書のような内容が気に入り、”まれ人”の到来をテーマに童話を書きたくもなった。
ところで、もう少し批評的な観点で見直してみると、冒頭に掲げた二つの作品、時間をテーマにした童話について、語りたいことが出てくる。わたしは、かねて「言葉・時間・金」が現代人を現代たら占めている三要素だと思っている。(例えば、三つとも「信頼」が共通ベースに考えられる。)そして、小川未明もそれを痛感すればこそ、資本主義の台頭の中で村落共同体が失われ、人心が物質主義に走る痛ましさを描き、疎外されない良心や愛を、子どもたちに語り継ごうとしたのだろうと思う。ただ、「時間」についてだけは、いささか手こずっているように思えるのが、この『時計のない村』『小さい針の音』の二作品だ。
村の二人の金持ちが町から高価な時計を買ってきて、かえって騒動が起こり、村の平穏が侵されるという『時計のない村』、いい人間になるべく村の小学校を去る若い先生に子どもたちが拠金して時計を送るのだが、出世したかれは、それより高級な時計に夢中になり、最後にまた子供からもらった真心の時計に再会し、「ああ、おれはほんとうに、社会のために、どんなことをしておったか?」と思う『小さい針の音』――市民の象徴が腕時計、といった文学者がいたが、時計と人生、「存在と時間」、哲学になっていく素材だ。
ただ、わたしは、「時計」にせかされ、「時間」に追われ、疎外に陥るのはもちろん避けるべきだと思うが、「時計」さえなければ、平和に暮らせるとか、「時計」の音に耳を貸していれば、道を踏み外さないというのは、いささか安易に過ぎると思う。特に、『時計のない村』の結末は、あまりにも農本主義的回帰だし、ノスタルジーに流れていると思う。「小さな針の音」を聴き、自分の生き様を振り返るというのも、少し無理があるように思う。子どもたちの真心の時計の音を大切にしなくなった事情の説明もない。金もうけに夢中になると時計はいらなくなる?むしろ逆だろう。時間を大切にしないから金もうけできないのではなかろうか。未明も、かなり貧困にあえいだとか知るが、「金・時間」を越える力が弱かったか。「言葉」はみごとに力と輝きを得ているが。(これはわたしの課題でもある)