「音痴」口説
小学校4年のとき、「音楽」だけがだめで、「居残り」になり、担任の先生の特別レッスンを受けたが、その時、「あなたみたいな音痴に出会ったことがない!」と言われたのをいまだに覚えている。先生は軽い冗談のつもりで、笑いながら言ったのだろうし、何も恨んでなんかいないのだが、40代になって、民謡の師匠について唄を習ったが、その時も、「あなたのような歌の下手な人に会ったことはない。」と言われ、わたしの「音痴」「歌下手」は固定されてしまった。だから、「いだき」は、わたしには合わないのではないかという懸念はあった。だから、「だれでもOKですか」と先生に質問したことを覚えている。
うたは好きである。音楽は嫌いではない。昔、浪曲師として、一世を風靡した人の血をひいているかもしれない。だから、中学のときは、ブラスバンド部に入ったし、職場でコーラス部に所属した。(みんなの迷惑そうな笑みが忘れられないが……。)そして、「歌声喫茶」や「フォークソング・ムーブメント」はうれしかった。ギターで自作の歌もつくったりした。(うまい下手は問わないことになっていたから、良かったが……。)「いだき」受講して、「ピアノ」の音で解放されたのは、とてもうれしかった。沖縄での野外コンサートで。わたしは生まれかわった。「音痴」「歌下手」はそのままに、自己表現として、ギターの弾き語り、民謡の演唱を続けている。
今度21日に、ある人の表現の集いに参加する。それで以下のような詩を書いた。構わず歌い朗読してこようと思う。
“鉄人まな板ショー”の前に
いつも迷い孤立している自分の愚かさ
にうんざりしながらも、うろつきながら、歌い
ときに優しさと賢さに触れ、何とか生きてきました
という山田さんは、もう60歳になるのだろうか、孫がいるという
40年くらい前に、かれと出会い、あなたの歌の場を創ればいいのに
とわたしは言ったらしい、それを忘れず、先日、表現の集いで再会し
阪急王子公園駅近くの高架下の物置小屋のような狭いところで
地位や名声、現状の価値観の否定をテーマに、唄の集いを始めるという
題して“鉄人まな板ショー” その意味不明さにたじろいでしまう
柔軟な思考と幅広い受容、優しい愛情を共に育てたい
とわたしは言ったのだが、無責任な思考遊戯にしたくない
恥部や下手をまき散らすのでなく、内面の表現の自由を分かち合いたい
中津川フォークジャンボリ―から50年、商業主義とのせめぎ合い
儲けるために唄うのか、「知らせる歌」か「うたう歌」か、
強烈な個性か、特別な才能か、詩が先か、声が先か、節なのか
わたしは、山田さんの「何とか生きてきました」詩と節に出会いたい
汚れたギターを手放さず、「民本」と看板を挙げ、倉庫に隙間を作り
知人を呼び集め、なお歌いたいことって何だろう、伝えたいことは?
加川良ばりの情緒と熱っぽさ? 高田渡なみの庶民感情とひそみ?
でも山田さんには山田さんの苦労と孤独と憤りがあるはずだろう