「身捨つるほどの祖国ありや」
今住んでいるマンションの掃除日。19所帯のうち、8人しか参加しなかったが、廊下や階段の洗浄や掃除に汗を流した。そして、管理組合の会議もあり、地域自治会の要望について話し合った。なにか地域社会で共生していく気力が養われた気がする。強制されるのでもなく、孤立を守るのでもなく、共に暮らしていく心構えみたいなものを意識した。(これまで住民組合や地域活動と、できるだけ離れて生きてきた。「世間」が苦手なこともあって。)
ところで、朝、新聞で読んだのだが、寺山修司の「マッチするつかのま海に霧深し/身捨つるほどの祖国はありや」という短歌を、P・マクミランが批評していた。国のために命を投げ出すことは、わたしはしたくない。しかし、地域社会、引いては国に、参画して生きていくべきだとも思う。この短歌、名歌だとは思うが、どこか寺山の詩人・演出家としての気取りのようなものを感じてしまい、「まこと」の心情吐露に至っていないようにも思うのだ。「国のため」「君がため」に命を惜しまないというのは、美しいが真実ではないように感じる。さりとて、利己心だけで自由気ままに生きたいというのとも違う。
若いころ、反戦運動や「平和大行進」に参加し、「左翼」であることに誇りを感じていたが、アナーキーな言動に魅かれたし、「ヤマギシズム」のような共同体にもなじめなかった。でも、やっと地域の人とともに生きることも大事なことという視点が明確になってきた。因みに、わが町は、老人が多く、地域活動にも応じかねているらしい。(隣り町のように子どもが多いと、地域活動に熱心で、動員数もおおきいらしいが。)だから、「まあ、あまり気張らずに取り組んでいきましょう。」と、管理組合の理事長は笑う。「身捨つる」ことなく、共生していきたい。(6/25)