「誰がために鐘は鳴るのか」
昨日人身事故のため、京都線が不通となり、ダイヤが大幅に遅れました。文句を言う人はいませんでしたが、ツィートを見るとアッサリと片付けられる感覚に静かな憤りが過ります。日常的事故と人は慣れてしまっていますが、それだけ「行き詰まっ」ている方が多いのかと考えました。どんな思いで線路に踏み入ったのか、どんなことがあったのかなど考えてしまう自分は、引きづられやすいのかもわかりません。ただ対岸の火事のように自分に起こらないことと関係なくあることはあまりに利己的で、この事故もそう言う人のこの社会の産物であることをわからないとと感じます。そして自分も少なからず染まっている一人ということも否めません。ホームで待つ間、貨物列車が過ぎて行きましたが、何故か近づいて過ぎゆくまでの光景が印象に残っておりました。ネットで貨物列車との接触とあったので、どうやらその列車だったようで、そのため印象に残っていたのかもわかりません。この様に身を投じる程に行き詰まっている方がまだまだあると考えて何とかしてあげたい気持ちが湧き上がります。明日は我が身ではないですが、親しい人が、知人がと受け止めます。
ありがとうございます。
田嶋利江子