「虚偽と安定」から遠く生きる!
私がこの風来坊の冒険家(白井氏)と知り合ったのは、昭和16年で、彼も私も当時の官憲、なかんずく軍部という狂人共に、強い嫌悪を感じていた。また私達は二人とも国際的な「出来損ない」の人間であって、渋滞に甘んじて安定を信じ、虚偽に慣れて良き家庭人と自称することが出来なかった。かくして同気相求むる我等は、急速に結びついたのであった。
西東三鬼『神戸・属神戸』(新潮文庫)p75「自動車旅行」
先日、神戸元町の高架下の「プラネット・アース」というフリースペースで表現の集いがあり、そこで読んだ詩「高架下の唄」を、「オンライン詩の朗読会」で提示したところ、コピーライターで文学愛好家のN氏から三鬼のことを聞いたのであった。かつての高架下の國際的な闇市の雰囲気は、三鬼の『神戸』という本によく出ていると。「水枕ガバリと寒い海がある」の句しか知らなかったわたしは、早速、それを読んだのだった。そして、もうそういうコスモポリタンな港町としての神戸、他者多様な民族文化が同居し、アナーキーな猥雑さを前面に押し出しながらも、人と人が独自の自由意思で支え合い、力強く生きていた市街は遠くなってしまったのだと痛感した。いまや、高架下はシャッターの連続、「プラネットアース」も立ち退きを迫られていると聞く。わたしが、甲南大学に通っていたころ、1962年(昭和37年)ころ、「あそこだけは行かない方がいい」と忠告されていた、あの怪しい混雑と危ない感じは、高架下の最後の「暗い輝き」だったのかもしれない。(因みに、三鬼は昭和37年死去)
あれから、1976年、「神戸まつり事件」があり、”神戸市株式会社”と揶揄されるような、市場経済優先的な上からの発展と管理が色濃くなり、なんとなく「自由都市」ではなくなったような感じがあり、さらには、1995年の阪神淡路大震災の壊滅的な被害のため、市民は自由に生きる気力まで失い、街はすっかり「神戸らしさ」をなくしてしまったのだ。北野異人館や旧居留地や南京街といった「観光の街」、パンやケーキの美味しい街、しゃれた文化の街に!もうトーアロードの「国際ホテル」も、山本通の「三鬼館」もなくなって、「高架下」も風前の灯火。
ただ、わたしは、前述の思いと矛盾するが、いまの神戸にも、三鬼が愛した「自由」な国際都市、どこかセンスのいい庶民的な街路、上等なアナーキーな市民感覚は、残存しているように思うのだ。かつて、パチンコもフラフープも神戸から始まり、全国に広がったのだと聞いたこともある。中内功さんの「ダイエイ」商法もそうだろう。どこか新しもの好きで、どこか無責任で。どこか大阪をバカにしたような。明るさと自由さと反抗心のようなものを、十分に味わえるから。再度山の山麓に広がる神戸の坂の街は、やはりどこか他の街にはない光がある。六甲連山は近く、ポートピアランドは港湾事業が展開する。神戸空港もある。まだまだ発展しそうだ。
そこで、西東三鬼が、津山出身の新興俳句の先駆者が、身をもって定住し、格闘し、見極めた「自由ライフ」の実践が大切になろう。かれは、「私という人間の阿呆さを公開した」までというが、戦争末期な狂気と乱暴と欲望が入り混じる神戸で、「渋滞に甘んじ」ない、「虚偽に慣れない」生き方の実践こそが重要なことを言い残したかったのに違いない。
神戸も「コロナ禍」の猛威の最中、昨日は過去最高の5913人。三鬼なら、怪しい「ワクチン」をどこからかたくさん持ってきて、近所の人に無料で配ったかもしれない。わたしなら、それを飲んで、やはり感染しても、軽症で過ごしてしまう気力がある。『神戸』を読んで、とても愉快になり、大笑いしたからかもしれない。