「自然は悪」
なにかどこかの火山まで爆発寸前らしいと聞けば、昨今の自然災害に憎しみさえ感じてしまう。しかも、「これからは異常気象が正常になる」と先生が言われたとか、「そんな!異常気象をなんとか馴致できないものか」など心中で叫んでしまう。
そういう思いがあったからだろうか、つまらなくて遅々として進まない『魔の山』ががぜん面白くなってきた。この小説は、どうやら「病気」(当時不治の病とされた結核のサナトリウムが舞台)がテーマらしく、人間生活を深く考察していくのだが、その登場人物の一人、「人文学者」が、「精神」の重要さを主張し、「肉体」や「自然」を敵視し、「精神や理性と比較された場合の自然は悪だからです。」と言うのだ。そしれ、リスボン地震のことを出してきて、「自然は暴力」とまで言い切るのだ。台風と地震の猛威を経験したばかりのわたしには、思わず賛同したくなるところだ。
前から言ってることだが、日本語で「自然」というのは、「おのずから然り」であって、不慮の出来事を指し、「死」をも意味した。それが近代日本になって、「Nature」の訳語になってからは、広く日本人の愛着する言葉となった。「自然」に囲まれての田園生活が理想郷のモデルでもある。その「自然」に何度手痛い目にあわされようとも……。
もちろん、「精神」と「肉体」、「理性」と「感性」などと二項対立で考えるからダメなのはわかっている。『魔の山』でも、「生命とは細胞蛋白の酸素燃焼に過ぎない」とまで医者が言う。ここには「大いなる存在」の余地がない。「自然は悪」などと言っていないで、「自然」の変化や推移を命の感覚で捉えつつ、人生を輝かせていかねばならないときに来たのだろう。